しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、
誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はあ
りません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲
や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によ
って生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。
ガラテヤ5章22-25節(p.382)
序 論)聖霊降臨記念日(ペンテコステ)は、主イエスの弟
子たちに聖霊が降った日です。
復活されたイエス様は二つの約束のことばをくださいま
した。一つはもう一度、地上に来られること、そして、も
う一つはご自身の代わりに聖霊を送ってくださることです。
(使徒の働き1章8節、11節p232)
弟子たちは、主イエスが天に昇られて後、十日間、心を
合わせてお祈りをしました。(使徒1章13-14節p232)
そして、五旬節の日、約束通り聖霊が降ります。
(使徒2章1-4節p234)
臆病だった弟子たちは勇気をもって、イエス様が救い主
であることを伝える者に変えられました。それを聞いて悔
い改め、主イエスを信じる人たちが起こされ、教会が生ま
れたのです。(使徒2章5-47節)
パウロは新約聖書の手紙の中で、聖霊の働きについて
様々なことを語っています。
今回の箇所を通して示されることは…
本 論)
1、御霊によって歩みなさい
「御霊」(16)とは聖霊のことです。「肉の欲望」(16)
の「肉」とは、神様から離れた人間の自己中心の思いや具
体的な行動を起こさせる力のことです。自己中心から生じ
る様々な欲望は、御霊による生き方と対立します。
御霊によって歩むとは、聖霊に導かれて生きる、聖霊に
助けられて主イエスの喜ばれる生活をするということです。
パウロは、肉の支配下で生じる様々な罪を列挙します。
「淫らな行い、汚れ、好色」(性的不品行)(19)、「偶像礼
拝、魔術」(20)(異教的な罪)、「敵意、争い、そねみ、憤
り、党派心、分裂、分派、ねたみ」(20-21)(道徳上の罪、
共同体の成立を根底から破壊する罪)。「泥酔、遊興」(21)(不
摂生の罪) これらの罪はすべて自己中心の心から由来す
る罪です。
「このようなことをしている者たちは神の国を相続でき
ません。」(21)とパウロは警告します。
しかし、聖霊は私たちを肉の力から解放して、
主イエスが喜ばれる生活をすることができるように助けて
くださいます。
2、主イエスの招き
次にパウロは「御霊の実」について語ります。(22-23)
「肉の働き」(19)の「働き」が複数形であるのに対して、
「御霊の実」の「実」は単数形が用いられています。
御霊の実は一つであり、ここで語られている一つひとつ
の徳目は一つひとつが切り離されるものではないことを示
しています。
「愛、喜び、平安」(22)は、私たちの心に与えられます。
「寛容、親切、善意、誠実、柔和」(22-23)は、相手のこ
とを思いやり優しい人として生きること、「自制」(23)
は、自分を優先する思いを治め、主イエスに従って生きる
ことです。
水をやり、肥料をやり、手入れをして、一生懸育てた
木にはたくさんの実がなるように、聖霊は私たちを内側か
ら変え、新しい人としてくださいます。
「これは良くないことだった。イエス様を悲しませてし
まった」という悔い改めの思いが与えられるのも聖霊の助
けです。
聖霊はそのように何度も私たちの心の手入れをして、実
を結ばせてくださるのです。
「キリスト・イエスにつく者」とは、十字架にかかられ
たキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされた
者、キリストに結び合わされた者を指す言葉です。
(ローマ人への手紙6章3-11節p305-306)
「…十字架につけた」も自分でなしたという意味ではな
く、「十字架につけられた」という受け身の意味で用いら
れています。(ガラテヤ人への手紙2章19-20節)
結 論)主イエスを信じ、従い続けていく者に、御霊の実
は結ばれていきます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です。人が
わたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、
その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなた
がたは何もすることができないのです。」
(ヨハネの福音書15章5節p216)
御霊の実を結ぶのは、私たちが立派になり、他の人より
も偉くなるためではありません。さらにへりくだって他の
人に仕えるためです。
りんごの木が自分の実を食べることがないように、実は
食べる人のもの、他の人のためのものなのです。
実を結ぶ私たちの生活が、イエス様にとっても周りの人
にとっても喜びとなるのです。主イエスにとどまり、さら
に多くの実を結ばさせていただきましょう。