話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご
自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。…
それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始め
て、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説
き明かされた。
ルカ24章15、27節(p.172、173)
序 論)主イエスは、「週の初めの日」の早朝、主イエス
はすでに墓の中にはおられませんでした。(1-9)
同じ日の午後、クレオパともう一人の弟子は、エルサレ
ムから11キロほど離れたエマオという村に向かう途中
でした。(13)
今回の箇所から、示されることは…
本 論)
1、主イエスは、近づかれ、ともに歩まれる
彼らは、エルサレムで起こった出来事(14)について話し
合い、論じ合いながら歩いていました。
そのとき、復活された主イエスご自身が近づいて来て、
共に歩かれます。(15)
しかし、二人の目はさえぎられていて主イエスだと気づ
きませんでした。(16)
主イエスは、彼らが何を話しているのかを問いかけられ
ます。(17a)
彼らは、暗い顔をして立ち止まりました。(17b)
このときは、彼らにとって、主イエスの十字架の死と、
その後、埋葬された墓から遺体がなくなったという知らせ
は、絶望的で悲しい出来事でしかありませんでした。
この時期、過越祭のために一時的に滞在していた人が
大勢いたので、彼らはこの人がその一人だと思っていまし
た。(18)
彼らは、主イエスがイスラエルを解放してくださる方だ
と期待していました。(21)
2、聖書全体に書いてあることを説き明かされた
主イエスは、十字架で死なれ、墓に葬られました。(20)
彼らを困惑し、「驚かせた」(22)のは、仲間の女性たち
がもたらした「空になった墓」についての報告と御使いた
ちが告げた言葉でした。(23-24)
二人の弟子たちの話を聞かれた主イエスは、彼らの心の
愚かさと鈍さが聖書(「預言者たちが言ったこと」)を信じ
ることを妨げているのだと告げられます。(25)
主イエスは聖書(旧約聖書)が告げていた救い主(キリスト)は、
受難の(苦しまれ十字架にかかられる)キリストであること、
そして受難を経て、栄光に入られる(復活される)お方であるこ
とを教えられました。(26)
「モーセや預言者たち」(27)は、旧約聖書の律法と預言
書のことです。旧約聖書は、律法、預言書、諸書の三つに
分類されます。
主イエスは、「聖書全体(旧約聖書)」が、ご自分につい
て証ししていることを示し、その意味を解き明かされまし
た。(27)(このとき解き明かされたのは、申命記18章15
節(p348)、詩篇16篇10-11節(p.945)、イザヤ書53
章(p.1258~1260)等々だったのではと考えられている。)
彼らは見知らぬ旅人(主イエス)に心が引き付けられ、語
る言葉に心が燃やされ、変えられていきました。(32)
目的の村に近づき、夕刻になっていたので、彼らは
その人(主イエス)に、自分たちの宿に「一緒にお泊まりく
ださい。…」と強く勧めました。(29)
主イエスは中に入られ、彼らと一緒に食事をしようと
されました。主イエスがパンを取って、神をほめたたえ、
裂いて彼らに渡されました。(30)
そのとき彼らの目が開かれ、そのお方が主イエスだと分
かりました。そして、その御姿は見えなくなりました。(32)
復活された主とお出会いした彼らは、喜びながら、すぐ
にエルサレムの仲間たちのもとに戻り、主との出会いの様
子を証し、恵みをともに分かち合いました。(33-35)
結 論)弟子たちの歩んでいた「エマオへの道」は、私たち
が主イエスとお出会いする人生の歩みの象徴でもあります。
主イエスは私たちがこのお方を知り、信じる前から私たち
に働きかけられ、ともに歩んでいてくださったのです。
今も、「生きておられる」(23)、主イエスは私たちに近
づいてくださり、私たちの心の扉をたたき、それが開かれ
るのを待っておられます。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれで
も、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人
のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしととも
に食事をする。」(ヨハネの黙示録3章20節p496)
そして、聖霊と聖書(旧約聖書、新約聖書)を通して、今
も私たちに語りかけておられます。
主イエスを信じ、心に受け入れ、主との交わりを持ち続
けながら歩んでまいりましょう。