それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。
「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去ら
せてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あな
たが望まれるままに、なさってください。」…イエスは再び
二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければ
この杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなり
ますように」と祈られた。
マタイ26章39、42節(p.57)
序 論)受難週の木曜日の夜、「最後の晩餐」の後、
主イエスは弟子たちとオリーブ山に行かれました。(30)
彼らの裏切りを告げられた後、オリーブ山のふもとに
あるゲツセマネという園に向かわれます。(36) そこに、
ペテロとゼベダイの子二人(ヤコブとヨハネ)を一緒に連れ
て行かれました。(37)主イエスのゲツセマネの祈りを通し
て示されることは…
本 論)
1、十字架の苦しみと死を思って祈られた
ゲツセマネは「いつもの場所に来ると…」(ルカの福音書
22章40節p.167)とあるように主イエスと弟子たちがよく来
られていた所でした。
これまで主イエスはすでに何回も自らの苦難を予告され、
それに向かって進んで来られました。
しかし、主イエスはこのゲツセマネの園で、間近に迫っ
た苦しみを思い、「悲しみもだえ始められ」ました。(37)
それは「死ぬほど」(38)の大きな悲しみでした。
主は弟子たちに一緒に祈ることを願われました。
「この杯」(39)は、神の怒りを表しています。
(詩篇75篇7-8節p.1010、
イザヤ書51章22節p.1257)
そして、ここでは特に十字架の苦しみと死を意味していま
した。
主イエスはここでも「わが父よ、…」(39)と親しく呼び
かけ、祈られたように、今まで父なる神様と絶えず親しい
交わりを持っておられました。そのお方が、これから全人
類の身代わりとなって、神の怒りを一身に受けようとして
おられたのです。それは神様から捨てられ、交わりが断た
れ、さばかれることでした。そして、その死は、神の聖な
る怒りのもとにさばかれる罪人としての死でした。
この杯は誰も経験したことのない苦悩です。 そのために
主イエスは、苦しみもだえ、血のしたたりのように大粒の
汗を流し、夜を徹して切々と祈られました。(39) (ルカの福音書22章44節p167)
そして、「しかし、あなたが望まれるままになさってく
ださい。」(39)と、父なる神様にご自分を委ねられました。
2、父なる神のみこころに従われた
一方、弟子たちはこの大切な時に目を覚まして共に祈る
ことができませんでした。主イエスは彼らを叱責したり
なさらず、祈るように命じられました。(40-41)
「わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれ
ば、あなたのみこころがなりますように」(42)という二度
目の祈りの言葉は主イエスが十字架の苦難を父なる神のみ
こころとして受け止め、従おうとされるみ思いが示されて
います。
弟子たちは眠ってしまったままでしたが、主イエスは同
じ言葉で三度目の祈りをされました。(43-44)
ついに主イエスは、この「霊の戦い」に勝ち抜かれまし
た。ご自分の願いではなく、父なる神のみこころ(ご計画)
に従われる決心をされ、立ち上がり、十字架に向かわれま
す。(45-46)
主イエスがゲツセマネで祈り抜かれ、父なる神様のみこ
ころに従われたがゆえに、全人類の救いの道が開かれたの
です。
結 論)神様は、主イエスを罪人としてさばかれ、十字架を
通して救いのみわざを成してくださいました。
「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされまし
た。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためで
す。」 (Ⅱコリント人への手紙5章21節p361)
主イエスが、祈っておられたときに眠ってしまった弟子
たちのように、私たちも自分の願いを優先し、真実な祈り
ができなかったり、すぐ祈ることを止めてしまう弱い者で
す。しかし、主イエスは今も、私たちのためにとりなし、
祈っておられます。
(ローマ人への手紙8章34節p311)
私たちも主イエスの支えと助けをいただいて祈りをささ
げてまいりましょう。神様は私たち一人ひとりにふさわし
い導きを示し、助けを与えてくださいます。
そして、自分の願いではなく、神様が示される道を主に
従って歩ませていただきましょう。