パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと
一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、
あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要
とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 マルコ2章16-17節(p.68)
序 論)イエス様が公生涯の歩みを始められた初期の頃、
従ってきた弟子たちと共にカペナウムに来られました。
(2章1節) そして、湖のほとりで群衆に教えられた後、
道の途中で、取税人のレビに出会われます。(13-14)
主イエスの言動を通して示されることは…
本 論)
1、主イエスは御声をかけられる
当時の取税人は、ローマ帝国から仕事を請け負ってユダ
ヤ人から税金を取り立てていました。規定額以上に徴収し
私腹を肥やしていたのです。そのため取税人は、同胞の
ユダヤ人からも嫌われ軽蔑されていました。
レビは、経済的には恵まれていましたが、自分の仕事に
疑問を感じ、心満たされない日々を送っていたのかもしれません。
主イエスは収税所に座っていたレビを見られ、御声をか
けられました。(14)
(レビは、マタイの福音書9章9節(p15)で「マタイ」とい
う名で呼ばれている人と同一人物)
レビは自分に親しく御声をかけてくださった主イエスに
他の人にはないご愛を感じ、収税所の座っていた場所から
すぐに立ち上がって主イエスに従いました。(14)
レビの新しい人生の歩みがこの時から始まったのです。
今も主イエスは私たちを愛され、聖書のみことばを通し
て御声をかけられ、語りかけてくださっています。
2、主イエスは招かれる
レビは「(他の)取税人たちや罪人たちを大勢」招いて食
事会の席を設けました。(15) ユダヤの人たちが、同じ
食卓に一緒に着くことは、今の私たちが考える以上に親し
い交わりを意味していました。
彼は、出席者たちに主イエスがどんなお方か、そして、
主に従う喜びを証ししようと願っていたことでしょう。
ここでの「罪人たち」は、生活や仕事上の事情等で、
神の律法に背く生き方をしている人たちのことです。
これは伝統的なユダヤ教の慣例(食物規程等)を職業等の
理由で守れない人たちに対してパリサイ派の人たちが
軽蔑を込めて使っていた言葉でもありました。
主イエスもレビの招きに応じられ、弟子たちと共に食事
の席につかれました。(15) 主イエスはどの人たちにも分
け隔てなく対され、喜びと感謝の食事会になりました。
ところが、外から主イエスの言動を窺(うかが)っていた
パリサイ派の律法学者たちがやって来て弟子たちに詰問し
ます。(16) 彼らは道徳やユダヤ教の信仰において「純
粋さ」を追求する人たちでした。だから、彼らにとっては、
「汚れた」取税人や罪人と食事をすることなど考えられな
いことだったのです。
主イエスは、パリサイ派の人たちに答えられます。(17)
ここで主イエスはご自分を医者にたとえておられます。
「丈夫な人」、「正しい人」は、パリサイ派の人たちのよ
うに自分の罪に気づかず、取税人たちを見下している人の
ことです。そしてここでの「罪人」は、収税人たちだけで
なく、神様の前に自分が罪ある者であることを認め、悔い
改めた者という意味も含んで用いられています。
結 論)この後もパリサイ派の律法学者たちは、主イエスに
対するねたみと殺意をますます強めていきます。そしてこ
のことが主イエスが十字架にかかられる大きな要因となっ
ていきました。
しかし、主イエスが十字架で死なれ、三日後に復活され
たのは、父なる神様が救いのご計画の中で成されたこと
でした。
主イエスが「わたしが来たのは…」(17)の「来た」は天
の父なる神様から遣わされてこの地上に来られたことを示
しています。そして、「罪人を招くためです」(17)はご自
身の目的と使命が示されています。
本当は神様の前では、すべての人が「罪人」なのです。
ご自身を医者にたとえられた主イエスは、罪という病に苦
しむ私たちを救うために、十字架にかかられ、復活された
のです。
今も、主イエスは、私たちを訪ねられ、「すべて疲れた
人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わた
しがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書
11章28節p21)、「わたしについて来なさい」(14)
と私たちを招いておられます。
さらに主イエスのみもとに近づき、主に従う者とならせ
ていただきましょう。