詩篇118篇1~6節

主に感謝せよ、主はまことにいつくしみ深い。
その恵みはとこしえまで。
 詩篇118篇1節(p.1058)

序 論)詩篇113~118篇はユダヤ人の間では「エジプトのハレル(賛美)」と
呼ばれています。かつての「出エジプト」の出来事を記念する過越の食事の
前後に歌われる習慣があります。過越はユダヤでは新年祭を兼ねています。
 改革者ルターはこの詩篇を、「これは私の詩篇、私の選んだ詩篇である」
と述べています。
 私たちも、一年間の恵みを覚えてこの詩篇の言葉を聞きましょう。

本 論)1、恵みを与えてくださる主への感謝 
 「感謝する」(1)は「ほめたたえる」という意味のヘブル語の言葉と比較す
ると「はっきりと言い表す」という意味合いが強い言葉です。原文を直訳す
ると「主(神様)に感謝を言い表せ」という意味です。
 「恵み」(「いつくしみ」口語訳)(1)という言葉は、神様の変わらないご真
実を表しています。
 「イスラエルよ」(2)はイスラエルの会衆、「アロンの家よ」(3)は祭司と
レビ人、「主を恐れる者たち」(4)は異邦人の改宗者への呼びかけです。
そして、三者を重ね合わせることで、全会衆に呼びかけています。
 5節から主語が「私」に変わります。私が主(神様)に呼びかけ、それに
神様は答えてくださいました。
 詩人は苦難の中で、神様との個人的、人格的交わりを経験していきます。
それが証しや賛美となってその恵みが伝えられ、分かち合われ、民全体の
信仰体験として共有されていきました。
 神様との交わりを通して、悩みが取り去られたり、自分の内が変えられ
それを克服することができたとき、私たちは、喜びが与えられます。その
ときの心境が「広やかな地へ導かれた」(「広い所に置かれた」(口語訳)(5)と
表現されているのでしょう。
 詩人は、自分の苦しみや悩みを振り返って、そのような中でも、祈りを聞
いてくださり、助け導いてくださった神様への感謝がこの一節に込められて
います。
 私たちも神様との交わりをより深め、主により近づかせていただきましょう。

2、神様が私たちの味方
 続いて詩人は「主は私の味方。…」(6)、「主は私の味方 私を助ける者。…」(7)
と歌います。
 この詩人にとって、一番の味方は神様でした。神様がいつも私と共にいてく
ださるという確信がありました。
 パウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるで
しょう。」と語っています。(ローマ人への手紙8章31節p.310)
 かつて私たちは罪のゆえに神と敵対していた者でしたが、主イエスの十字架に
より、神様と和解させていただきました。そして、神様を「アバ、父」と親しく
呼ぶことができる者とされています。(ローマ人への手紙8章15節)
 主イエスは十字架にかかられる前、弟子たちと過越の食事(最後の晩餐)をされた
後、オリーブ山(ゲツセマネ)に向かわれました。そのときに歌われた賛美は、この
詩篇118篇だったことでしょう。(マタイの福音書26章30節p.57)
    私たちのために「義の門」(救いの門)(19)が開かれるために主イエスは「家を建
てる者たちが捨てた石」(23)となられます。人々に見捨てられ、ゴルゴタへ向かわ
れ、十字架にかかられました。しかし、父なる神様は、主イエスを復活させられ、
「要の石」(「礎の石」(口語訳)(22)とされました。それは私たちの目には不思議に
見える神様のみわざです。(23)

結 論) イスラエルの民は、一時は自分たちは「神から見捨てられたのでは」と
思っていました。しかし、決してそうではないことが分かったとき、彼らは感謝に
あふれて「ハレルヤ」と賛美することができました。
 今も同じです。どんな苦難があろうとも神様は私たちを見捨てられません
神の御子イエス様の十字架と復活のゆえに、神様はどんなときも私たちを助け支えて
くださるのです。
 2020年はコロナ禍の中、私たちはいろいろな苦難を経験しました。そのような
中でも、主は私たちと共にいてくださり、様々な恵みを与えてくださいました。
私たちは共に礼拝をささげながら歩むことができました。
「私はあなたに感謝します。あなたが私に答え、私の救いとなられたからです。」(21)
 今年も主イエスと共に歩むことができたことは素晴らし恵みです。
    新しい年も、神様を礼拝し、主に信頼して歩んでまいりましょう。