マタイの福音書2章1~12節

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、
母マリヤととともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。
そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」
               (マタイ2章10-11節 p.2)

序 論)マタイ福音書2章の前半は、イエス様の御誕生後、しばらくして
「東の方」(1)(アラビヤ、ペルシャ等、諸説あるがバビロンの辺りと考え
られる)(現在のイラク地域)から星占いをする博士(学者)たちがエルサレムに
来たことが述べられています。彼らは…

本 論)1、「ユダヤ人の王」を求めた
 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。…」(2)と
博士たちは問いました。当時、ユダヤの地を支配していた
ヘロデ王(BC37年頃-BC4年)はその言葉を聞いて不安を感じます。
「ユダヤ人の王」は、やがてユダヤの国にお生まれになる救い主(キリスト)のことを
意味していました。
 ヘロデは、政治的手腕はありましたが、純粋なユダヤ人ではなく、王位が
奪われるのを極度に恐れていました。それで後に、幼子イエス様の命を奪おうと
します。(16)
 また旧約聖書に精通していた、律法学者たちは、救い主がお生まれになる地が
ベツレヘムであることを知っていました(4~6節)(旧約聖書 
ミカ書5章2節p.1586)が、救い主を自らすすんで捜そうとはしませんでした。
 しかし、博士たちは、星に導かれて、1000キロメートル以上離れた東方の地から、
救い主にお会いしたい、拝したいと願ってユダヤの地までやって来ました。
ドイツの神学者シュライアマッハー(1768-1834)は、「この星は私たちすべての心の
中にある神への深いあこがれを表している、私たちをも真の王に出会わさせて
くださる星だ」と言っています。
 私たちも、出会った人や、本や映画や、いろいろなことを通して、聖書の言葉に
触れ、イエス様とお出会いすることができました。それらは私たちにとって
「キリストへの星、導きの星」です。
神様は、今も私たち一人ひとりに人生の様々な出来事を通して働きかけられ、
私たちを主イエスのもとに導いて下さるのです。

2、イエス様を礼拝し、贈り物をささげた
 博士たちは、エルサレムで救い主はベツレヘムにお生まれになることを知り、
そこに出かけました。(9-10)
 すると星が再び現れ、先立って進み、彼らを幼子のいる場所に導きます。
彼らはついにその目的地に着きました。
 そこで、彼らは幼子イエス様の前にひざをかがめて,礼拝しました。
自分たちの真の王、救い主の前にひれ伏したのです。そして、自分たちの持ってきた
高価な宝物をささげました(11)。
 長い旅をしてきた彼らが求めていたのは、自分の個人的な願いや理想を実現する
ことではありませんでした。それは、自分が本当にひれ伏して、そのお方に身を
ささげる、そういうお方を見出すことでした。彼らはそのお方に出会い、自分を
本当に正しく治め、導き、守り、支えて下さる真の王の前にひざをかがめることが
できました。
 博士たちは、夢の中で、ヘロデのもとに戻らないように 神様から警告を受け、
別の道を通って自分の国に帰りました。(12)
 この後、幼子イエス様は、成長され、30歳のときから公に宣教活動を始め
られました。
  しかし、ユダヤにおいて力を握っていた、王や祭司長や律法学者たちは、
「ユダヤ人の王」を恐れ続け、神の救いを拒み、ついには、イエス様を十字架に
追いやりました。
 本来は、やがて来られる救い主を意味する「ユダヤ人の王」という言葉が、
後にイエス様を尋問したり、侮辱したりするときに用いられる言葉になって
しまいます。 (後にローマ総督ピラトが、イエス様に対して「あなたがユダヤ人の
王なのか」と尋問した。 マタイ27章11節p.47)
  (ローマの兵士が「ユダヤ人の王様、万歳」と言って侮辱する。
マタイ27章29節 p.61)
  (十字架の主イエスの頭上に掲げられた罪状書きには「これはユダヤ人の
王イエスである」と書かれていた。マタイ27章37節p62)
   イエス様が十字架にかかられたのは、ヘロデ王や宗教指導者、総督ピラトや
ローマの兵士たちの言動に現わされた彼らの罪、そして私たちのすべての罪の罰を
身代わりに背負って、死なれ、その罪を赦し、罪のもたらす滅びから私たちを救う
ためでした。
 十字架にかかられ、三日後に復活されたイエス様は、私たちの永遠の救い主です。
イエス様と真にお出会いした私たちは、イエス様をもう「ユダヤ人の王」とは
呼びません。イエス様を信じ、心に受け入れ、人格的な交わりを持つ者は、
イエス様を「神の御子、救い主」と告白するのです。
そして、イエス様を礼拝する者とされます。

結 論) 聖書は「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(10節)と語ります。
本当にひれ伏し、礼拝すべき方のもとへと導かれるとき、私たちにも大きな喜びが
与ええられます。
 クリスマスは、「キリスト礼拝」という意味です。
 主イエスを神の御子、救い主と信じ、礼拝するとき、私たちは御子イエス様を
与えてくださった神様のご愛と恵みを知り、本当の喜びと心の満たしが与えられる
のです。
 主イエスを共に礼拝し、賛美する喜びをもって、このクリスマスのときを
過ごしましょう。そして、私たちの人生の導き手である主イエス様と共に歩んで
まいりましょう。