ヨハネの福音書9章1~12節

「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。
そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
ヨハネ9章7節 (p.199)

序 論) ある日、主イエスが弟子たちと道を歩いて行かれる途中、道端で物乞いを
していた一人の目の不自由な人をご覧になりました(1)。
彼に対する主イエスの言動を通して示されることは

1、光を与えられる主
 弟子たちは、主イエスに彼について質問しました。(2)  彼らの言葉には、当時の
ユダヤ社会の考え方が表れています。彼らは、目が不自由であるなどの苦難は、
本人や両親、先祖の罪の結果であると考えていました。
 しかし、主イエスは、「…この人に神のわざが現れるためです。」(3)と言われ、
この男の人の障害の原因ではなく、未来の目的について語られました。
 さらに、ご自身がこれから成されるみわざを通して、主イエスこそがまことの
世の光であることを人々に示そうとされたのです。
 「わたしを遣わされた方」(4)は、主イエスを地上に送られた父なる神様のことです。
 「昼のうちに」(4)は、ご自身が世にいる間に、という意味です。
 「夜が来ます」(4)は、主イエスが弟子たちのもとから去って行かれ、十字架にかか
られることを暗示する言葉です。
    主イエスがこのとき「わたしたちは…」(4)と言われたように弟子たちにも、
主イエスと共になすべきわざ、(宣教の使命等)がありました。
 そして、主イエスは「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」(5)と仰い
ました。主イエスご自身が、この闇の世を照す光として、この地上に来てくださった
のです。
 主イエスは、今も、私たちの行くべき道を照らし、導いてくださる光です。

2、霊の目を開いてくださるお方
 主イエスは、唾(つば)で泥を作って盲人の目に塗られました。(6)
    続いて、「シロアムの池」に行って、洗うように命じられます。
(シロアムの池はエルサレム南部のキデロンの谷間にあった。
聖書巻末の地図10 エルサレムの地図を参照)
  「シロアム」はヘブライ語で、「遣わされた者」という意味です。
これは、主イエスが、父なる神様から遣わされたお方であることを示す言葉でした。
そして、この男の人も主イエスによって「遣わされた者」として、主の言われた
通りに従い、池に向かいました。(7)
 主の言葉通りに彼が目を洗うと、目が見えるようになりました。(7) 彼は生まれて
初めて、その目で神様の造られた世界を見ることができました。
 長年、同じ場所で物乞いをしていたこの人を周囲の人たちはよく知っていました。
それゆえ、彼の身に起こったことを不思議がり、また「…おまえの目はどのように
して開いたのか。」となぜそうなったのかを知ろうとしました。(8-10)
 彼は「イエスという方が…それで…見えるようになりました。」(11)と簡潔に事実を
伝えました。彼はここでは「イエスという方」と言っていますが、この後、宗教指導
者たちとのやりとり、主イエスとの交わりを通して彼の主イエスに対する見方は
だんだんと変えられていきます。
 彼は、主イエスのことを「あの方は預言者です」と答えます。(17)
そして、「神から出ておられる」と証しします。(33) 
その後、主イエスは彼をもう一度訪ねていかれました。そして、主との交わりの後、
彼は「主よ、信じます。」と信仰を告白し、礼拝しました。(38)
 彼は肉眼が開かれただけでなく、霊の目も開かれたのです。

結 論) この章で、目の不自由だった人の目が開かれたことは、ヨハネの福音書に
記されている「第六のしるし」と呼ばれています。「しるし」とは、
ご自身が神の御子、救い主であることを証しするために成されたみわざのことです。
 彼が、主イエスを信じたのは、目が見えるようになったことによってではなく、
主の言葉を聞いたことによるものでした。彼は主の言葉を聞いて、応答し、決断して
イエス様を主と告白したのです。(38)
  主イエスは私たちの霊の目をも開いてくださるお方です。
 聖書のみ言葉を通して、主イエスとお出会いし、それによって生きることの意味に
目が開かれた人は、だれでも彼と同じように、「私は盲目であったのに、今は見える
ということです。」(25)と証しすることができるのです。
 私たちも「シロアム」(主イエスに遣わされた者)であり、主イエスの弟子とされた
者です。
 今、置かれたところで、それぞれが神様から与えられている課題に取り組んで
まいりましょう。