ローマ人への手紙3章20~24節

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、
神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、
信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
ローマ人への手紙3章21-22節 (p.301)

序 論) 3章8節までの箇所でパウロは神のさばきと人間の罪性を明らかに
していきました。異邦人の罪、ユダヤ人の罪を指摘したパウロはさらに、
すべての人が罪の下にあることを指摘しました。(9~19 ) そして今回の箇所で
パウロは福音とは何かを明らかにしていきます。この箇所を通して示されることは…

1、神の義が示された
  異邦人も、ユダヤ人も、だれも律法を守ることはできませんでした。
律法によって自覚させられることは、私たちが律法を守ることのできない
罪人であるという現実です。(20)律法を行うことによっては、神の前に義と
されることはできません。どんな行いによっても、私たちは罪赦されることは
なく、「罪の自覚」(自分は罪人であるという罪の意識)が増すだけでした。(19)
「しかし、今や」(21)、神の義が「律法とは関わりなく」(原文では「律法なしに」)
(「律法とは別に」口語訳)、 「律法と預言者たちの書によって」(旧約聖書全体に
よって)証しされ、示されました。
  パウロはこの神の義を、「イエス・キリストを信じる信仰によって、信じる
すべての人に与えられる神の義」と言います。(22)
  旧約聖書全体が、救い主イエス・キリストを証ししています。
主イエスは「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を
調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」と言われます。  (ヨハネの福音書5章39節p.187)
     全く罪のないお方、主イエスが私たちの身代わりとなり十字架の上で罪の罰を
受け、復活してくださったゆえに、私たちの罪は赦されました。そして永遠の
いのちに生かされる者とされたのです。
   神の義は、主イエスを神の御子、救い主と信じるすべての人に与えられます。
そこに「差別はありません」(22)。
  神様は、主イエスを信じる者を義と認めてくださるのです。

2、ただ、神の恵みにより与えられる
  今までは、罪のゆえにだれも神の栄光を受けることはできませんでした。(23)
しかし、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって、私たちは義と
認められました。(24)
    「贖い(あがない)」の動詞「贖う」の原語は、「買い戻す」という意味を表す
言葉です。身の代価(身代金)を支払うことによる解放です。
  主イエスは地上で歩んでおられたとき、弟子たちにご自身が「贖い」となる
ことを語られました。
  「人の子も、仕えられるためでなく仕えるために、また多くの人のための
贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
(マルコの福音書10章45節p.89)
  このみことばの通り、主イエスは私たちを罪から解放するため、ご自身の
命を十字架の上でささげてくださいました。
  私たちが「価なしに」(24)その救いの恵みを受けることができるのは、
神様がその価を支払ってくださったからです。神がご自分の御子イエス様を犠牲に
して、私たちを罪から解放してくださいました。
  アウグスティヌス修道院で修行の日々を送っていたマルティン・ルター
(1483-1546)は、救いの確信と平安が得られず、苦悩していました。
   さらに深く聖書を読み、祈り、黙想する中で、ある日、主イエスによって、
自分を義としてくださる、神の愛を示されました。(「福音の再発見」と呼ばれる。)
 1517年10月31日にヴィッテンベルク城教会の扉にルターが記した
「95箇条の提題」が掲示されたことが「宗教改革」の発端となりました。
  その後ルターは、当時ラテン語訳でしか読めなかった聖書を、誰でも読める
ようにドイツ語で翻訳し、出版しました。
  (『マルティン・ルター -ことばに生きた改革者』徳善義和著 参照)

結 論) 聖書の言葉が読まれ、語られ、聞かれることを通して福音が宣ベ伝えられ、
主イエスを信じる人たちが起こされていきます。
  今、私たちは自国語や他の言語で自由に聖書を読むことができる恵みを覚え、
聖書を読む喜びをさらに知り、主イエスを証ししてまいりましょう。
  この地域で、日本で、世界中でまだ福音を知らない人たちに福音が伝えられる
ため、そして主イエスを信じて救われる人たちが起こされるよう祈り続けていき
ましょう。