人々は、パウロにもっと長いあいだ滞在するように願ったが、彼は聞きいれないで、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰ってこよう」と言って、別れを告げ、エペソから船出した。使徒行伝18章20-21節 (p.213)
序 論) 一年半の間のコリント滞在を終えて、パウロは帰路に着きます。
「シリヤへ向け」(18)は、シリヤのアンテオケを目指したという意味です。
プリスキラとアクラも、エペソ(アジヤ沿岸の町)まで同行しました。
第二次伝道旅行の終わりのとき、そして第三次伝道旅行の始めに彼らに起こったことは…
1、パウロのある誓願の終了
パウロは異邦人伝道に励みながら、ケンクレヤの港ではユダヤ人の習慣に従って頭を
そりました。(18) 髪をそることはある誓願の終了を意味します。
(民数記6章2、5節p.191)
パウロは、福音の自由に関わるユダヤ人の習慣には厳しい姿勢を示しました。
しかし、そうでない場合には、自らもユダヤ人の習慣に従いました
彼の誓願が何だったのかは、わかりません。諸説があります。(旅の安全、
異邦人への宣教のため、ユダヤ人教会と異邦人教会の関係がよくなること等) この地の
ユダヤ人たちは、パウロに好意を持ち、「もっと長いあいだ滞在するように願い」ました。
(20) しかし、パウロは、海路、カイザリヤに上陸します。(21-22)
アクラ夫妻はエペソに残りました。
その後、パウロはエルサレムに上り、教会の人たちに会いに行きました。
そして、アンテオケに下っていきました。(22)
アンテオケ教会に帰着して、パウロの第二次伝道旅行は終わりました。
パウロは、エペソを去るとき、「神のみこころなら…」(21)と言いました。
もともとパウロはこの伝道旅行の始めには、アジヤの各地で宣教する計画でした。
しかし、「マケド二ヤ人の幻」を見て、神様が、マケドニヤ(ヨーロッパ)に自分たちを
導いておられると確信して、神の御心(ご計画)に従いました。 (使徒16章6-10節 p.208)
そして、パウロたちの宣教は祝され、多くのユダヤ人、異邦人たちが救われ、各地に
教会が建て上げられました。パウロは、人ではなく、神の御心に従う歩みを続けていっ
たのです。
2、アポロとの出会い
アンテオケでの滞在を早々に切り上げ、パウロは第三次伝道旅行に出発しました。
(23)アジヤの各地にすでに立てられていた教会を巡回して、「すべての弟子たちを
力づけた」のです。
その頃、アレキサンデリヤ出身でユダヤ人のアポロがエペソに来ました。
当時、アレキサンデリヤ(エジプトの都市)は、教育と哲学の中心地でユダヤ人も多く住ん
でいました。 (24) 彼は(旧約)聖書に関する知識が豊かでした。
アポロは不十分ながら「主の道」にも通じていました。 そして、「霊に燃えて
イエスのことを詳しく語ったり教えたりして」いました。(25) しかし、「ただヨハネの
バプテスマしか知っていなかった」のです。
かつて、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)は、ユダヤ人たちに悔い改めを説き、
ヨルダン川で多くの人たちに洗礼を授けました。ヨハネのことは多くの地域で知られて
いたのです。(ルカ福音書3章1-18節p.88)
アポロはバプテスマのヨハネを通して、イエス様がメシヤ(救い主)であることを
知り、信じたと考えられます。
アクラとプリスキラは、会堂でアポロの語ることを聞きました。二人は信徒でした
が、福音を正確に理解し、パウロたちの教えにも深く通じていました。(26)
彼らは、主イエスによって成された「神の道」をさらに詳しくアポロに解き明かし
ました。(26)
その後、エペソ教会の人々は、アカヤ伝道の希望を持っていたアポロをコリント
教会に推薦しました。彼はコリントで雄弁な教師として活躍し、教会の人たちにとって
大きな力となりました。(27-28) 「わたしは植え、アポロは水を注いだ。…」(Ⅰコリント
3章6節p.258)
結 論) パウロが第二次伝道旅行の始めに願っていたアジヤ伝道は、第三次伝道旅行の
ときに実現し、特にエペソに長く滞在することになります。
私たちにも、ときに神の御心(ご計画)と私たちの思い(願い)が違うことを示される
ことがあります。そのようなときも神の御心に従っていくとき、その歩みは導かれ、
祝されるのです。
「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」
(箴言16章9節p.899)
「人の心には多くの計画がある。しかし、ただ主の、み旨のみが堅く立つ。
」(箴言19章21節p.903)
聖書に親しみ、主との交わりを深めつつ、神様が示される主イエスに従う道を
歩んでまいりましょう。
(参考)
パウロの第二次伝道旅行期間はAD49年半ば~51年、
第三次伝道旅行期間は53年春~56年春頃と考えられる。