すると、ある夜、幻のうちに主がパウロに言われた、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。 あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」。
使徒行伝18章9-10節 (p.212)
序 論) パウロは、アテネでの短い滞在を終えて、さらに70キロ西にあるコリントの町に進んでいきました。コリントはアカヤ(アカイヤ)州の首都でした。彼はここでアクラとプリスキラというユダヤ人夫妻に出会います。(1-2)
パウロたちのコリントでの歩みを通して示されることは…
1、主のみ言葉を聞く
AD49年、クラウデオ帝が、ローマからすべてのユダヤ人を退去させる勅令を出しました。(2) それで、アクラたちはコリントに来て、パウロと出会うことができました。
パウロは彼らの家に寄宿し、共に天幕造りをして生計を立てました。彼は平日は働き、安息日に会堂でユダヤ人やギリシヤ人に福音を語りました。(3-4)
やがて、シラスとテモテがマケドニヤからコリントに到着すると、「パウロは御言を伝えることに専念」しました。ユダヤ人たちに「イエスがキリスト(救い主)であること」を語ります。(5)
ところが、ユダヤ人たちはパウロに激しく反抗しました。そこで、彼は「今からわたしは異邦人の方に行く。」と 宣言し、異邦人伝道を優先して福音を語りました。(6-7)
(パウロを家に留めた「テテオ・ユスト」(7)は異邦人)
その結果、会堂司クリスポ(ユダヤ人)とその家族、そして多くのコリント人たちが救われたのです。(8) (Ⅰコリントへの手紙1章14節p.256 参照)
しかし、パウロには、コリント伝道の前途に不安がありました。ユダヤ人たちの執念深い反抗、コリントの町の道徳的腐敗などによって恐れの気持ちもあったと思われます。
パウロは、ある夜、「恐れるな。語り続けよ、黙っているな。…」との主の御声を聞きます。(9-10)
主に励まされ、パウロは一年半にわたってコリントで伝道しました。(11)
2、ユダヤ人からの告訴を逃れる
「地方総督ガリオ」(12)は、ローマの哲学者セネカ(BC 1年頃~AD65年)の兄でした。(ガリオの在位期間は、AD 51~52年) ユダヤ人たちは、パウロを襲い、法廷に引っぱって行って、ガリオに訴えました。(12)
ユダヤ人の訴えは、パウロが律法に背く神礼拝を教えているという、内容でした。(13)
当時、律法に従う礼拝(ユダヤ教)は、ローマ帝国から公認されていました。主イエスを
キリストと信じる教えも、その「分派」と見られていたため、寛容な取り扱いを受けていました。
ユダヤ人は、このことを不服としてパウロを告訴したのです。
パウロが弁明しようとしましたが、その前にガリオは彼らの訴えを却下しました。(14-15)
総督が関心を持つのは「不法行為とか、悪質の犯罪」であって、「言葉や名称や律法に関する問題」は、あずかり知らないことでした。
彼は宗教的な論争には中立的な距離を保っていたのです。
このことにより、パウロたち宣教者はローマ帝国内で迫害を受けず、伝道することができました。(AD64年 皇帝ネロのキリスト教徒迫害が始まるまでの約13年間)
ユダヤ人たちが法廷から追い払われた後、人々は会堂司ソステネを打ちたたきました。(16-17) その理由は諸説あり、はっきりとは分かりません。彼がパウロの教えに賛同したからかもしれません。 (Ⅰコリント1章1節p.256に「ソステネ」の名がある)
結 論) アテネからコリントへ向かうとき、パウロは不安と恐れの中にありました。 (Ⅰコリント2章2節p.257)
しかし、「恐れるな。語り続けよ、黙っているな。…」(9)との主の言葉によって心強められたのです。
主イエスはパウロに、三つの約束をされました。主が共におられること、安全が守られること、コリントに神の選びの民が多いこと、でした。(10)
主イエスご自身が、コリント伝道の苦難の中にも、パウロと共におられ、絶えず彼を励まされたのです。そして、約束を実現してくださいました。
さらにしっかりした助け手となったアクラとプリスキラ夫妻(1-3)、シラスとテモテ(5)、コリントの人たち(7-8)がパウロを支え、協力したのです。そして、ガリオを通してユダヤ人の訴えも取り下げられました。(12-16) 主がパウロのために彼らを備え、与えてくださったのです。(Ⅱテモテへの手紙4章19節p.336)
私たちも、主のみ言葉による力と励ましをいただき、福音のために共に力を合わせて歩んでまいりましょう。
(参考)
笹尾鉄三郎師(1868-1914)
B・Fバックストンの「赤山講話」を筆記した。