そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「…神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。使徒行伝17章22、31節 (p.212、213)
序 論) パウロたちがベレヤで宣教していたとき、テサロニケからやって来たユダヤ人たちが、彼らの宣教の働きを妨害しました。(13) そのことにより、パウロだけがギリシヤ文化の中心地アテネに行くことになりました。(14-15) アテネでパウロが語ったことは…
1、万物を創造された神を証しする
アテネは哲学の盛んな都市でした。パウロは町の中のおびただしい偶像を見て「心に憤りを感じ」ました。(16)
パウロは居ても立ってもおられず、安息日には会堂で、週日には広場で福音を語りました。(17)
アテネの広場は、哲学の教師が人々に知識を伝えたり、人々が議論をする場所でした。
「エピクロス派とストア派」(前者は「快楽主義者」、後者は「禁欲主義者」と訳される)(18)は当時のギリシヤ哲学の代表的な学派でした。
パウロは広場で人々に「イエスと復活とを」宣べ伝えました。しかし、彼らは、「復活」(ギリシヤ語で「アナスタシス」)を神の名と誤解し、「イエスとアナスタシス」という「二つの神」を教えていると思ったのです。(18)
哲学者数人はパウロと議論を戦わせ、彼の「新しい教え…珍しいこと」に興味を持ち、好奇心から、彼をアレオパゴスの評議所に連れて行きました。 (19-21) (「アレオパゴス」は「アゴラ」(広場)を見下ろす丘という意味)
パウロは「知られない神に」(23)と刻まれた祭壇があることを示し、偶像を拝むのではなく、天地を創造された神を礼拝するように語りました。(22-26)
2、主イエスの復活を証しする
パウロは人々に、御利益や恐怖心に基づく偶像崇拝ではなく、神の恵みに信頼することを勧めました。
神は「ひとりの人」(アダム)から全民族を創造し、時代を区分し、境界を定められた、と語ります。(26)
そして、神が恵みとご愛に富むお方であるから、その応答として、私たちが求めれば神を見出すことができること、神が一人ひとりのすぐ近くにおられることを伝えました。(27-28)
さらにパウロはギリシヤの詩人たちの言葉を引用し(28)、「神の子孫」であるあなたがたが、神を偶像にしてはならないと諭します。
ギリシヤ人は自分たちがゼウス神の子孫だと思っていましたが、パウロは、この言葉をもとに、神は人間を「神のかたち」に創造されたこと、故に創造主なる神様のみを礼拝することを伝えようとしたのです。
説教の最後に、パウロは人々に悔い改めを迫ります。
神は今まで人々の「無知」を見過ごしておられたが、悔い改めの時が来たこと。神が「お選びになったかた」(「お立てになった一人の方」新改訳2017)、イエス・キリストによって、さばきの時がすでに始まっていることを語りました。(30-31)
主イエスの復活は神の義の実現であり、悔い改めへの招きが「すべての人」に示されたことの「確証」でした。 (31)
復活のメッセージを聞くと、人々の興味は一挙にさめてしまいました。パウロが語っていたのが、「アナスタシス」という神ではなく、「復活」だったからでした。そして、パウロが「イエスと復活」(18)を語っていただけでなく、「主イエスが復活された」と宣べ伝えていたことがわかりました。それが、ギリシヤ人にはつまずきとなりました。多くの者は彼の話を聞いてあざ笑いました。(32) その後、パウロはアレオパゴスを去っていきます。(33) しかし、主イエスを信じる人も少数ではありましたが、起こされたのです。(34)
結 論) パウロはギリシヤ人が救われるため、その地の思想・用語を用いて懸命に福音を語りました。その時、主イエスを受け入れた人は少数でしたが、現在は、アテネ、ギリシヤにも多くの教会があり、この時、パウロが福音を語ったことも語り継がれています。
ユダヤ人でパウロの説教を拒んだ人もいましたし、主イエスを受け入れた人もいました。ギリシヤ人でも信じた人もいましたし、つまずいた人もいました。
しかし、パウロたちは福音を語り続けたのです。
「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」(Ⅱコリント6章8節 p.283)
人の心には「知られない神」(「知られていない神」新改訳2017)(23)、真の神様を求める思いがあります。
聖霊の力と導きを信じ、まだ、創造主なる神様と救い主イエス様を知らない人たちに福音を伝えてまいりましょう。