マルコによる福音書10章13~16節

「…よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。マルコ10章15-16節 (p.68)

序 論) 主イエスは弟子たちと共にエルサレムに向かっておられました。ある日、主イエスに祝福していただくために、人々が幼子たちを主のみもとに連れて来ました。(13a)
  そのときに起こったことと、主イエスが言われ、なされたことを通して示されることは…

1、主イエスは幼子も招いておられる 
  「イエスにさわっていただくために…」(「イエスに触れていただこうと…」(新改訳2017)(13))は、マタイ19章13節(p.30)では、「イエスに手をおいて祈っていただくために…」と記されています。主イエスに祝福の祈りをしてもらうためでした。
  ところが弟子たちは彼らを叱りました。(13b) 弟子たちは、主イエスをこれ以上、煩わせないようにと配慮したのです。それと同時に彼らの心には子どもを軽視する思いがありました。
  子どもたちを叱った弟子たちを見られ、主イエスは憤って言われました。(14)
     弟子たちは以前にも、幼子が神の国において特別な存在であることを主イエスから教えられていました。(9章36-37節p.67) しかし、それを何一つ理解していなかったのです。また、このような者をつまずかせることは、非常に厳しい神のさばきに値する者(9章42節p.67)ですから、そのような点から見ると主イエスの憤りは当然と思われます。しかし、弟子たちにとって、それは大きな驚きでした。
  主イエスは、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。」(14)と言われました。
  エルサレムに、すなわち十字架の死に向かっておられたお方が、幼子を祝福し、交わるときを持たれました。主イエスは、子どもたちとの交わりを喜ばれました。
  主イエスは、子どもたちも自分のもとに来ることを願っておられ、それを喜ばれるのです。

2、神の国を受け入れる者
  主イエスは「神の国はこのような者の国である。」(14)と言われます。「神の国」とは、神の支配のことです。
  そして、「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(15)と言われました。(新改訳2017では「子どものように」と訳されている。)
  「幼な子のように」は、ここで純真無垢で罪がない子どものようにという意味で言われているのでは、ありません。
  ここでの「幼な子のような者」は、子どもが親にありのままで、信頼するように、ただ、神様にお頼りして歩む人の意味で言われています。
  このように、「幼子(子ども)のような信仰」とは自分の業、能力に頼るのではなく、ただ単純に、全面的に神様により頼む信仰です。
  「受け入れる」は原語では「(与えられたものを)手で受け取る」という意味です。つまり差し出されたものを素直に受け取るということです。
  私たちは、主イエスを通して神の国に入ることができます。主イエスを信じ、率直に心に受け入れる者が神の国に入ることができるのです。
「…そこに入ることは決してできない」(15)というみ言葉はこれが神の国に入る唯一の道であることを示しています。
  主イエスは、子どもたちを自分のもとに引き寄せ抱かれました。そして彼らの頭に手を置いて祝福のお祈りをされたのです。(16)子どもたちは主イエスの優しさや温かさを肌で感じ、主からの大きな祝福を直接受けることができたのです。

結 論) 「抱く」は原語では、「腕(かいな)の中に抱く」という意味合いがあります。これは、牧者(羊飼い)がそのその腕に抱き、携え行き導かれることを思い起させます。
 「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものを優しく導かれる。」(イザヤ書40章11節 p.997)
    神様は、私たちを御腕により、支え、導いて下さいます。それは、「永遠の腕(うで)」です。
   「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。」(申命記33章27節p.299)
  主イエスは、神の豊かなご愛、恵み、賜物をもって幼子を祝福されました。主イエスは祝福に満ちたお方であり、すべての人を祝福したいと願っておられます。
  父なる神様、主イエスに全く信頼して歩みましょう。