…バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。…それから、彼はデルベに行き、次にルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。
使徒15章39-40節、16章1節 (p.208)
序 論) エルサレム会議の後、アンテオケ教会は落ち着きを取り戻し、パウロやバルナバたちと共に宣教の働きも進められていきました。(35)
AD49年頃、パウロはバルナバに声をかけ、第2回伝道旅行に出発しようとします。(36) この後に起こったことと、私たちに示されることは…
1、バルナバとの別れ
今回の伝道旅行の当初の目的は、前回の伝道旅行で誕生した教会を再訪することでした。(36)
しかし、パウロとバルナバの間にマルコを一緒に連れていくかどうかで、「激論」(39)が起こりました。(37-38)
前回の旅の途中で離脱したマルコを、パウロは伝道者として不適任と見,ました。 (使徒13章13節p.203)
しかし、バルナバは、もう一度彼に機会を与えようとしたのだと思われます。
激論の結果、二人は互いに別の場所に行くことになりました。(39) バルナバはマルコを連れてクプロ(キプロス島) に向かいました。
パウロは、エルサレムに帰っていたシラスを協力者に選んで出発しました。(40)(22節、32節を参照)
使徒行伝の中では、これ以後、バルナバのことは記されていません。しかし、パウロはこの後もバルナバを同労者と見ていました。(Ⅰコリント9章6節 p.265)
マルコも後にパウロの協力者として復帰します。殉教の時が間近に迫っていたパウロはマルコを高く評価するようになっていました。(AD60年代半ば頃)
「…マルコを連れて、一緒に来なさい。彼はわたしの務のために役に立つから。」 (Ⅱテモテへの手紙4章11節 p.336)
神様はパウロやバルナバ、マルコたちに対してなさったように今も、一人ひとりをそれぞれにふさわしい状況に置き、訓練し、成熟させてくださるのです。
2、テモテとの出会い
一行はパウロの故郷タルソを通過して小アジアに入りました。タルソから前の旅行の折り返し点デルべに向かうには三千メートルを超すタウロス(トロス山脈)を超えなければなりませんでした。(現在のトルコ中央部と南部地中海地方を分ける山脈)。彼らは前回の順路を逆にたどりました。
パウロはルステラで青年テモテに出会います。(16章1節) 彼の母ユニケはユダヤ人ですが、ギリシヤ人と結婚していました。(Ⅱテモテへの手紙1章5節 p.333 参照)
テモテは、ルステラやイコニオムの教会で評判のよい人物でした。(2)
パウロは、彼を同行させるため割礼を受けさせました。(3)それは「その地方にいるユダヤ人の手前」とあるように、ユダヤ人に対する配慮からでした。パウロ自身もテモテをユダヤ人として受け入れていることを彼らに示すためだったのではないかと言われています。
パウロは「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。…」(Ⅰコリント9章20節 p.266)と語っています。
伝道旅行は異邦人伝道が目標でしたが、パウロは行く先々で、同胞のユダヤ人に対しても等しい愛と熱情を込めてキリストの福音を説きました。
パウロの一行は、小アジアにあった諸教会を再び訪れて問安しました。同時に、エルサレム教会会議の決定事項を伝達します。(4)
それを聞いた諸教会の人たちは、信仰が強められ、宣教に励み、主イエスを信じる人が次々と起こされていきました。(5)
結 論) 第二次伝道旅行の前に、パウロとバルナバが別々の場所に宣教に遣わされたことによって、それぞれの働きが祝福されました。
パウロは、同労者シラス、テモテと共に、宣教の大きな働きを成しました。この第二回の伝道旅行(AD49~51年頃)は三回のうち最も大きな規模のものでした。
この伝道旅行により、福音がついにアジアの境を超えてヨーロッパに達することになります。
パウロとバルナバが別れ別れになってしまったことは、そのときだけ見ると失敗のように思われますが、後には、神様の大きな祝福が多くの地域に注がれる結果となりました。それらは「主の恵み」(40)と聖霊のお働きによるものです。
私たちも一時的には失敗や行き詰まりのように思えるような出来事を経験するときがあります。しかし、どのようなことがあっても主イエスを信頼し、従っていくとき、神様は大きなご計画をもってすべての教会と私たちそれぞれの人生を導いて下さるのです。
そして、後にはすべてのことを益とし、祝福としてくださるのです。
主イエスと共に歩み続けてまいりましょう。