マタイによる福音書14章13~21節

弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。
イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。
マタイ14章17-19節 (p.23)

序 論) マタイ14章の初めの箇所は、バプテスマのヨハネが当時の国主ヘロデによって殺害される経緯(1-12)が記されています。ヨハネの死を知らされた主イエスは、舟でガリラヤ湖を渡られ、ひとりで「寂しい所」へ行かれます。しかし、群衆が主の後を追って来ました。(13) 今回の箇所で起こった「パンの奇跡」の出来事は、四つの福音書すべてに記されています。(マルコ6章33-44節、ルカ9章10-17節、ヨハネ6章1-14節)    (時はAD29年春頃だったのではという説がある)
主イエスが人々に対して成されたことは…

1、彼らを深くあわれまれた
  主イエスは群衆の姿を見て深くあわれまれ、病人をいやされました。(14)
  「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。」 (マタイ9章36節 p.14)
  父なる神様も、御子イエス様もあわれみ深いお方であり、一人ひとりの弱さや苦しみ、悩みをすべてご存じであり、顧みてくださるお方です。(出エジプト記34章6-7節 p.124 等)
  父なる神様が御子イエス様を地上に送ってくださったのも、神様のあわれみのゆえでした。
    夕方になっても人々は立ち去ろうとしませんでした。弟子たちは彼らを解散させ、彼ら自身がそれぞれ食べ物を求めることを提案しました。(15) 彼らの言葉は、常識的な判断と言えるものでした。彼らは、今まで主イエスが成された多くの奇跡やいやしのみわざを直接見ていたはずなのに、ここでは主に期待することをしませんでした。
  しかし、主イエスのお考えは、違っていました。(16)
  「あなたがたの手で…」と言われたのです。
  そこで弟子たちは、群衆の中で何か持っている人があるかどうか探しました。(大麦の)パン五つと干し魚が二匹ありました。(17) ヨハネ福音書6章9節(p.145)によると、これらは一人の少年のお弁当だったのではと推測されます。
    「パン五つと魚二ひきしか…」(17)の弟子たちの言葉に彼らの現実しか見えない姿、あきらめの気持ちが表れています。

2、パンを御手に取り、弟子たち渡された
  主イエスは、パンと魚を持ってくるように命じられます。(13) そして、主は群衆を草の上に座らせ、祝福の祈りと共にパンを裂いて弟子たちに渡されました。
  「天を仰いでそれを祝福し」(19)は新改訳2017では、「天を見上げて神をほめたたえ」と訳されています。
  主イエスは、日ごとのパンを与えてくださる父なる神様に感謝の祈りをささげ、神様を賛美し、ほめたたえられたのです。
    弟子たちは、主イエスから受け取ったものを群衆に配りました。(19)パンと魚は尽きることがなく、人々はそれを食べて満腹し、残りのパンくずを集めると十二のかごでいっぱいになりました。
  集まった人たちは「女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった」(20)とありますから女性と子どもを加えた実際の人数は一万人以上いたと思われます。

結 論) この奇跡のみわざのきっかけは、五千人を超える飢えた群衆を前にして、小さな取るに足らないもの、パン五つと魚二匹が主イエスの御前に持ってこられ、御手に渡たされたことでした。
  たとえ弟子たちが、「五つのパンと魚二匹しかない」と思っても、主イエスは父なる神様に感謝され、それを用いて大きなみわざを成されました。
  私たちが主にささげる祈り、奉仕、ささげものは、たとえそれらが小さなものであっても、主イエスを信頼し、感謝をもってその御手にささげるとき、主はそれを受け取り、神の国のために喜んで用いてくださるのです。
  主イエスの御手に自分自身をお委ねし、神の国拡張のために一人ひとりが感謝をもって奉仕させていただきましょう。