使徒行伝15章1~21節

そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、 また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。… 確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である。
使徒15章8-9、11節 (p.206)

序 論) ある人たちがユダヤからシリヤのアンテオケ教会にやって来ました。彼らは、たとえ主イエスを信じたとしても、救われるためには割礼を受けなければならない、と教え始めました。(1)しかし、パウロとバルナバは、人が救われるのは信仰のみによるのであって、その習慣をもたない異邦人に強要する必要はないと主張しました。このことを巡って教会の中に紛糾と争論が生じたのです(2) 彼らはエルサレムに行き、会議を開いて話し合うことになりました。こうして開かれたのがエルサレム会議でした。その中で使徒たちが語ったことを通して示されることは…

1、恵みによって救われる
  パウロとバルナバたち一行は「フェニキヤとサマリヤ」(3)を通過し、各地の「兄弟たち」に、異邦人の回心というめざましい神様のみわざを報告しました。(3)
        エルサレムでは、「教会と使徒たち、長老たち」の歓迎を受け、異邦人伝道の報告会が行われます。(4)
しかし、パリサイ派出身のキリスト者から、異議の申し立てが起きました。(5) 救いのために割礼やモーセ律法を守ることが必要かどうか、それがこのエルサレム会議(AD49年頃)の議題でした。(6)
   激しい争論の後、ペテロが語ります。まず、自分が異邦人に福音を語ったのは、神のご意志であることを語ります。(7) 彼はここで、ローマ人の百卒長コルネリオの回心の出来事を例に挙げました。(8-9)(使徒行伝10章p.197)
   神様が異邦人にも聖霊を与えられたこと(8)は、割礼を受けていなくても彼らを救おうとされる神のご意志の現れでした。そこにはなんの分け隔てもありませんでした。(9)
   異邦人に割礼を強いるのは、「神を試みる」(10)ことであり、「われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびき」を「あの弟子たち」(異邦人キリスト者)の首にかけること(ユダヤ人も守ることができなかった律法の重荷を異邦人にも負わせること)でした。(10) それは神様の御心ではありませんでした。

2、異邦人の救いとユダヤ人キリスト者への配慮
  ペテロの発言によって、活発だった論議が静かになりました(12)。続いて、パウロとバルナバが自分たちの伝道旅行において実現した異邦人の救いを証ししました。(12)
そして、議長のヤコブ(「主の兄弟ヤコブ」ガラテヤ1章19節参照)が皆に語り掛けます。(13)
ヤコブはペテロ(シメオン)の意見を支持し(14)、論証のために「預言者たちの言葉」(15)を引用します。(16-18)(アモス書9章11-12節 p.1278)
   ヤコブは、異邦人伝道と異邦人の救いをダビデの幕屋の再建(イスラエル王国の再興)に結び付けて語ります。
   そして異邦人が主の民に加えられることは、「世の初めから」一貫して変わらない神様のみ旨(ご意志)であると語ります。(18) こうして福音による異邦人の自由(割礼を受ける必要はない)が確認されました。(19)
   最後に、ヤコブはユダヤ人キリスト者への配慮を異邦人教会に求めます。(20-21) ここで挙げられた四つの事項は、ユダヤ人が避けてきた行為であり、おおむねレビ記17~18章(p.160)の「寄留者(イスラエル在留異国人)」に求められた聖潔の定めに該当するものでした。この四項目を避けることが条件として盛り込まれました。
ヤコブの発言を使徒たち、長老たち、出席者が了承し、それが会議の決定となったのです。
もし、パウロとバルナバの説く「異邦人の福音」(主イエスを信じることによって救われる)がエルサレム教会で受け入れられなかったら、ユダヤ人教会と異邦人教会は二つに分かれてしまったことでしょう。しかし、聖霊のお導きによって分裂は避けられ会議の決定は了承され、エルサレムの教会とアンテオケや他の異邦人の教会は一致して進んでいくことができたのです。

結 論) 教会の歴史の中で最初の教会会議となったこのエルサレム会議においても、この会議の出席者たちは、聖霊の導きを求めました。(28)       私たちも聖霊のお導きを祈り求めながら、集まりや会議を執り行ってまいりましょう。
「全会衆が黙ってしまった」(12)のは、ペテロの「主イエスの恵みによって救われる」(11)との言葉を聞いて、出席者たちがそれぞれ自分自身の救いの体験を思い出したからかもしれません。このときの沈黙は、皆が主の恵みを思い起すときとなったことでしょう。
主イエスの恵み、神様が主イエスによって成された救いのみわざを、私たちはただ信じ、受け入れるだけで救われるのです。
主イエスを信じる者とされた幸いを覚え、感謝をもって日々を歩みましょう。