主はわたしたちに、こう命じておられる、『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである。』使徒13章47節 (p.204)
序 論)ピシデアのアンテオケで、安息日にパウロは会堂で福音を語る機会が与えられます。(14-15)パウロは旧約聖書に記されている出来事と主イエスこそが救い主であることを語りました。(16-41)それを聞いたユダヤ人たち、異邦人たちの反応とパウロたちの言動を通して示されることは…
1、神の恵みにとどまっているように
人々は、パウロとバルナバに次の安息日も会堂で話してほしいとしきりに願いました。(42) 集会の後も、二人は、彼らに、「引きつづき神の恵みにとどまっているように」と説きすすめました。(43)
次の安息日には町中の人たちが「神の言」を聞くために集まりました。しかし、ユダヤ人たちはこれを妬み、反対します。彼らは、パウロの言葉(44-45)と主イエスが救い主(メシヤ)であることを受け入れることができませんでした。
パウロとバルナバは大胆に語ります。(46) 福音はまず「あなたがたに(ユダヤ人たちに)」語り伝えられなければなりませんでした。しかし、彼らは、それを退け、永遠の命にあずかることができなくなってしまいました。
そして「これから方向をかえて、異邦人たちの方へ行く」(46)と宣言します。教会の宣教の歴史が新しい段階に入りました。彼らはこれから異邦人に宣教していきます。(46)
ここでの「神の恵みにとどまる」(43)とは、神様の恵みを知り、主イエスを求める心、
主イエスへの信仰を持ち続けなさい、ということでした。
2、異邦人の光として
パウロとバルナバは、イザヤ書49章6節(p.1015)を引用して自分たちの使命を語ります。(47)
彼らの使命は、福音を宣べ伝え、主イエスによる救いの光を全世界のすべての国民にもたらすことでした。
彼らの言明を異邦人たちは歓迎します。(48)
「永遠の命にあずかるように定められていた者」(48)は、「救い」の恵みを受けた者たちのことです。彼らは、主イエスを「信じ」、主のみ言葉をほめたたえます。(「主のことばを賛美した」(新改訳))(48)
主のみ言葉(福音)は、この地方全体に広まりました(49)。しかし、ユダヤ人たちはますます心をかたくなにし、反発します。彼らは、会堂の関係者たちに働きかけて、パウロとバルナバを迫害させ、二人を町から追放させました。(50)
多くのユダヤ人たちは、福音に触れても、悔い改めて、この神の恵みにとどまろうとはせず、自分たちを誇り、異邦人と自分たちは違うのだという間違った優越感の下に生き続けようとしていたのです。
二人は「彼らに向けて足のちりを払い落して」(51)、次の宣教の地イコニオムに向かいました。彼らの行為は、神様が彼らのこの地での伝道者としての責任を解かれたしるしであり、ユダヤ人たちが福音を受け入れなかったことへのさばきの予告でもありました。また彼らに対する「抗議のしるし」でもありました。
(ルカによる福音書9章5節 p.101参照)
このアンテオキア、次のイコニオムでの出来事を通し、これ以降、福音はユダヤ人ではなく、異邦人に伝えられていくようになります。
二人の伝道者パウロとバルナバはアンテオケの町を去って行きましたが、その後には主イエスの福音を聞き、信じた弟子たちが残りました。(51-52)
彼らは会堂ではなく、自分たちで集まり、礼拝し、信仰生活を続け、さらに教会が建て上げられていきました。
彼らは、ユダヤ人たちのキリスト者に対する偏見、伝道者の追放という出来事に直面しながらも、「ますます喜びと聖霊とに満たされて」いました。(52)
結 論)だれでも、ただキリストを信じることにより、罪赦され、神様に義としていただくことができるのです。(38-39)
「神の恵みにとどまっているように」(43)は原文では「神の恵みの下にとどまっていなさい」という意味の言葉が用いられています。私たちにとって何かをすること以上に、神様の恵みの下にとどまること、生き続けることが大切です。
私たちにとって「神の恵みにとどまる」とは、「主に対する信仰を揺るがない心で持ち続ける」(11章23節)ことであり、主イエスと結ばれ、交わりを続けることです。
パウロたちが主によって、「異邦人の光」とされ、「地の果までも」(47)、福音を伝えたように、私たちも主イエスから光をいただいて、「世の光」とされ、周りの人たちに主を証しする者、主にある愛と希望と喜びを分け与える者とさせていただきましょう。