イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」ヨハネ11章25-26節 (p.158)
序 論)ベタニヤに住んでいた姉妹のマルタとマリヤ、弟のラザロは主イエスの友人でした。(5、11) ある日、彼女たちが主のもとに使者を送り、ラザロが病気であることを伝えます(3)。それを聞かれた後、主イエスが弟子たちやマルタに語られた言葉を通して示されることは…
1、ラザロを復活させられることを予告された
ユダヤの宗教指導者たちは、主イエスを亡き者にしようとしていました。(8) しかし、その時は、まだ来ていませんでした。(9-10)主イエスは、ラザロの死を告げられます。(11) しかし、弟子たちは、主の言葉を誤解して受け取りました。(12-13)
新約聖書では、「肉体の死」を「眠り」という言葉を用いて表している箇所がいくつかあります。そしてここで「起こす」と言われたのは、死んだラザロをよみがえらせられることを予告されたのです。(11)
主イエスと弟子たちがべタニヤ村に到着されたとき、ラザロは死んですでに
この後、愛するラザロの死とマルタ、マリヤの悲しむ姿に直面された主イエスは涙を流されます。(35) それは主イエスのご愛の深さゆえの、泣く者に同情され共に泣かれる悲しみの涙でした。
2、ご自身が命の主であることを示された
主イエスをお迎えしたマルタは「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、…」と言いました。(21-22)
主は彼女に「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と、これからすぐに起こるラザロの肉体のよみがえりについて語られました。(23)
しかし、マルタはそれを終わりの日の出来事としか受け止められませんでした。(24) 当時のユダヤ教では、「終わりの日」のからだのよみがえりが一般に信じられていました。
主イエスは「わたしはよみがえりであり、命である」と言われました。(25) 後に主イエスご自身が十字架にかかって死なれ、父なる神様が主を復活させなさったのです。
さらに「わたしを信じる者はたとい死んでも生きる。また生きていて、わたしを信じる者はいつまでも死なない。」と言われます。(25-26) 主イエスを信じる者は、主に結び合わされているので、肉体の死を経験しても、霊は永遠の命に生かされるのです。そして、主イエスがもう一度、地上に来られるとき(再臨の日)、肉体の復活にあずかることができるのです。
主はラザロをよみがえらせられることによってこの言葉が真実であることを証明されました。(43-44)
後日、主イエスはご自身の十字架の死と復活によって、ご自身が命の主であられることを明確にお示しになりました。この命の主である主イエスを信じる人は永遠の命に生かされるのです。
結 論)永遠の命は、肉体の命が無限に引き延ばされる「不死」のことではありません。地上の生涯には限りがあります。では永遠の命とは何でしょう。聖書は永遠の命を「新しい命」とも呼んでいます。 (ローマ人への手紙6章4節 p.240)
主イエスを信じる人は、この地上の生涯を終えた後に永遠の命にあずかるのではなく、主イエスを信じたその時から主イエスにある新しい命に生きる者とされるのです。
では、永遠の命にあずかるにはどうしたらよいのでしょうか。それは、主イエスを神の御子、私の救い主と信じ、心に受け入れることです。
主イエスは、マルタに対して「あなたはこれを信じるか」と言われました。(26)この問いに対して、マルタはすべての言葉の意味が理解できたわけではありませんでしたが、主の言葉を受け入れ、「主よ、信じます。…」(27)と真心からの信仰を告白しました。
この告白こそ、死に打ち勝ち、希望に生きる力です。私たちもマルタのように「主よ、信じます。」と告白し、主に従い、主との命の交わりの中で生かされ、命の道を歩んでまいりましょう。