使徒行伝12章1~25節

するとたちまち、主の使が彼を打った。神に栄光を帰することをしなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えてしまった。こうして、主の言はますます盛んにひろまって行った。使徒12章23-24節 (p.202)

序 論)使徒12章には、当時、ユダヤを治めていた「ヘロデ王」(1)の行いとそれによって起こったことが記されています今回の箇所を通して示されることは…

1、ペテロ、救い出される
  ここに記されているヘロデ王は、ヘロデ・アグリッパ1世のことで、主イエスが誕生された時にユダヤを治めていた「ヘロデ王」(マタイ福音書2章1節p.2)の孫です。
王はユダヤ社会の宗教指導者に取り入ろうとして、教会を迫害しました。(1) そして、「ヨハネの兄弟ヤコブ」が斬殺されました。(2) 彼は12人の使徒のうち最初の殉教者となりました。 (マルコ福音書10章38節p.69 参照)
「除酵祭の時」(3)(「過越の祭」(4)のとき)、続いてペテロが逮捕されます。16人の兵卒たちが厳重に監視しました。(4-5a)一方、教会ではペテロのため熱心な祈りが神様にささげられました。(5b)
夜、主の使い(御使い)は、獄の中で熟睡していたペテロを起こし、救い出しました。(6-9)。彼には、すべてが「現実のこと」と思えず、「ただ幻を見ているように」思われました。(9)
み使いが離れ去った後、ペテロは我に返りました。(11)そして、自分を救い出されたのは、「主」すなわちキリストであられたことが確かにわかったのです。(11)
ペテロが教会の仲間のもとに急ぎます。彼らは彼のために祈っていました。(12) 最初に彼を迎えたのは「ロダ」という女性でした。(13) 彼女のあわてぶりは、ペテロが救い出されたことが、教会の祈りと期待をはるかに超えた神のわざであることを示しています。(14)
彼女の報告を聞いた弟子たちも同じでした。祈りが聞かれたことが信じられませんでした。(15-16)
   ペテロを見て驚く彼らに、彼は「ヤコブや他の兄弟たち」への報告を依頼しました。追手の追及を避けるためにも彼はエルサレムを離れました。(17)
このときの教会の弟子たちのように、私たちもいろいろなことを疑いつつ祈ってしまうことがあります。祈りが聞かれていないのではと思ってしまうこともあります。しかし、神様は私たちの小さな祈りをも喜んで聞いてくださり、定められたときに、私たちの予想を超える形で応えてくださいます。

2、ヘロデ王の最期
  ペテロの行方が分からなくなり、ヘロデは「番兵たち」の責任を問いました.。(18-19)  ツロとシドンとの人々は、経済的な依存関係にあるヘロデと敵対することを好まず和解を求めました。(20) 両者の和解を記念して盛大な式典が行われました。ヘロデの「演説」に人々は賛嘆します。(21-22)
彼は、自分を「神」とし、「神に栄光を帰することをしなかった」ので、主の使いが彼を打ち、突然、息が絶えてしまいました。(23) (AD44年の出来事と言われている)
  ヘロデの上に起こったことを通して、神様と主イエスの主権が、この世の権威に勝ることを示され、「主の言」(「主のみことば」(新改訳))は、ますます広まって行きました。(24)         

結 論)「集まった人々」(ツロとシドンからの使節も加わっていた)(22)は、ヘロデの演説を「神の声」として、聴きました。しかし、それは真の神様の前に大きな罪、過ちとなったのです。
 私たちも「人間の声」(世の声、自分の声)に振り回されたり、それを「神の声」としてしたがってしまいやすいものです。しかし、今、神様は、「主の言」である聖書の言葉を通して語っておられます。
聖書の言葉に耳を傾け、「静かな細い声」、神様が私たちの心に語り掛けられる御声を聞きましょう。 (列王記上19章11-12節p.510 参照)
今年、私たちは、イースターからペンテコステの日まで礼拝堂に共に集まることができませんでした。けれども、この経験を通して、私たちは一人ひとりが神様の御前に出て、聖書を読み、「隠れた所においでになるあなたがたの父」である神様に祈り、交わりを持つことの大切さを知りました。 (マタイ福音書6章6節p.8)
そして、今日、共に集い、礼拝をささげ、祈ることの恵みを新たに覚えています。  「密室の祈り」(個人のデボーション)と「公の祈り」(礼拝や祈祷会)、両方とも私たちにとって大切であり、必要なのです。
神様は、今も私たちが祈り、主の言を求めることを願われ、待っておられます。祈りつつ、神様が示される御心に従わせていただきましょう。