イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
ヨハネによる福音書21章12-13節 (p.178)
序 論)弟子たちは、二度、復活の主イエスにお出会いしました。(ヨハネ福音書20章19-29節)。その後、み使いの言葉(マルコ16章7節p.81)のゆえか、迫害を恐れたためか、故郷のガリラヤへ帰っていました。彼らの前に三度目に御姿を現された主イエスの言葉となされたことを通して示されることは…
1 舟の右の方に…
ペテロをはじめ七人の弟子たちは、「テベリヤ湖」(ガリラヤ湖)の漁に出かけました。しかし、一晩中働いても、一匹の魚も穫れませんでした。(2-3) 夜明けの岸辺に復活された主イエスが立たれました。しかし、弟子たちにはその方が主であることが分かりませんでした。(4)
主イエスの「何か食べ物はあるか」(5)のお言葉は、「食べるものがあるか、ないか」を問うておられるのではありません。原文では「魚は獲れなかったんだろう。」という意味の問いの言葉です。
そして主は、「舟の右の方に…」(6)と言われました。
主イエスのご命令に従って弟子たちが網を下ろします。するとおびただしい数の魚が獲れました。(6)かつてペテロや他の弟子たちが主イエスの弟子として歩み始めるとき、これと同じような出来事がありました。 (ルカによる福音書5章1~11節 p.91)
彼らは今回の大漁の手ごたえに、かつての大漁の体験、主イエスに従う決心をしたときのことを思い出したでしょう。
「イエスの愛しておられた弟子」(7)、ヨハネがまず、この方は主イエスだと気づきました。 ぺテロはヨハネの言葉を聞き、上着をまとって湖に飛び込みました。(7) そして主に向かって泳ぎます。他の弟子たちの乗った舟は岸から「50間ほど」(「100m足らず」)離れた所にありました。舟は魚の入った網を引きながら岸に向かいます。(8)
弟子たちは、この方が主イエスだとまだわっていなかったのに「舟の右の方に…」(6)との言葉に従いました。私たちも、聖書の言葉、主の言葉を聞き、信頼して、従いましょう。
2 主への畏れと感謝の中での食事
復活の主イエスご自身が弟子たちのためにすでに炭火を起こし、朝の食事を準備しておられました。(9-10)
獲れた魚の数は「153匹」(11)と記されています。この数字が何を意味するか、今までいろいろな解釈がなされてきました。当時知られていた魚の種類の数とか民族の数だとの解釈もありました。しかし、現在は、ペテロたちが実際、数えた数なのだろうと言われています。
朝の食事が始まりました。弟子たちは、このお方が主イエスであることがわかっていました。だからあえて尋ねる者はいませんでした。(12-13)
復活の主イエスを前にして、弟子たちは黙って食べたのではないでしょうか。主への畏れと感謝、喜びと緊張の気持ちが入り混じった静かな食事だったことでしょう。
自分たちにパンと魚を与えられる主イエスの御姿を見た弟子たちは、かつて主イエスが、5000人にパンを分けたときのこと、彼らにパンを裂いて与えてくださった最後の晩餐の出来事等を思い起していたかもしれません。
(ヨハネ福音書6章1-14節 p.145) (マルコ福音書14章22-25節 p.76)
またペテロは、炭火を見ながら、かつて自分がイエス様のことを知らないと言ってしまったときのことを思い起していたかもしれません。
(ヨハネ福音書18章15~18節、25~27節p.172)
このとき主イエスは、ペテロや弟子たちの罪や失敗をすべて赦し、彼らに新たな使命を与え、立ち上がらせようとしておられたのです。
結 論)この後、弟子たちは主イエスのご愛に応答し、新たに献身し、宣教の働きのために立ち上がりました。
復活の主イエスがガリラヤ湖畔で備えてくださった朝の食卓と弟子たちと共になさった食事は、後に教会で執り行われる聖餐、愛餐、交わりの原形でもあります。また天の御国での主イエスとの交わりの象徴でもあります。
現在、私たちは礼拝堂で共に集うことができない状況ですが、近い将来、共に集い、礼拝し、聖餐の恵みにあずかるときが来ます。
その日に備え、今、私たちと共にいてくださる主イエスとの交わりをさらに深めつつ一日一日を過ごしましょう。日々、神様の御前に出て祈り、互いのことを祈り合いながら、相まみえる日を待ち望んでまいりましょう。