トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 イエスは彼に言われた、
「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。 ヨハネ20章28-29節 (p.177)
序 論)週の初めの日(日曜日)の朝、復活された主イエスはマグダラのマリヤに御姿を現されました。(11-18)
同じ日の夕方、主イエスは弟子たちにも御姿を現されました。その時と、それから―週間後に起こった出来事を通して示されることは…
1、主は平安を与えられ、遣わされる
弟子たちは、主イエスを失ってしまったという失意と自分たちも逮捕されないかと恐れでいっぱいでした。それで、彼らは戸を閉じて家の中にこもっていました。(19)
そこに主イエスは入って来られ、彼らの中に立たれます。そして、「安かれ」と言われました。(19)
主を見た弟子たちは喜びました。(20)
主イエスは弟子たちを遣わされます。(21) 主は弟子たちに息を吹きかけられ、聖霊を与えられました。(22)彼らに託された使命は、罪の赦しの宣言です。(23)
「罪は赦される」、「罪はそのまま残る」の二つの動詞は、原語では両方とも受身形です。神様が罪を赦し、また神様が罪をそのままになさるという意味です。弟子たちの権威は、神様から託されたものでした。
「安かれ」という言葉の原文は、「平安があなたがたにあるように」(19)(新改訳)とも訳されています。
私たちにも、いろいろな不安や恐れがあります。主イエスはそのような私たちにご自分から御声をかけて下さり、平安を与えてくださいます。
「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネによる福音書14章27節 p.166)
2.主はご自身を信じるように招いておられる
ところが、弟子のトマスは、復活の主イエスが他の弟子たちに御姿を現されたときその場にいませんでした。(24)
トマスは弟子たちから主イエスの復活の知らせを聞いてもそれを信じませんでした。(25) トマスは、心の中で思ったことをすぐ正直に言ってしまう人だったかもしれません。(参考:doubting Thomas トマスのような疑い深い人)
(ヨハネ福音書11章16節p.158 、14章5節p.164)
「八日ののち」(26)は、この場合、1週間後の日曜日のことです。その時、再び復活された主イエスが、弟子たちそしてトマスに御姿を現されました。そして、ご自身の十字架の御傷を示されたのです。(26-27)
主イエスは「…信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(27)とトマスに呼びかけられました。
トマスは、「わが主よ、わが神よ」と主イエスが神であるとはっきり告白し、主の御前にひれ伏しました。(28)主イエスこそ神であり、自分はこのお方、真の神に僕として喜んでお仕えする、との信仰告白でした。彼の告白は後の使徒信条や信仰告白の原点の一つとなりました。
主イエスはトマスに「あなたはわたしを見たので信じたのか。」(29)と問われます。 他の弟子たちもみな、主イエスを見るまでは信じることができませんでした。
トマスも他の弟子たちの言葉によるだけでは復活の主を信じることができませんでした。
しかし、主は、「見ないで信じる者はさいわいである」と語られます。(29)
トマスや他の弟子たちのように、復活の主イエスを見ることが出来た人たちは幸いですが、この後、聖書の言葉を聞いて主イエスを信じる人たちも幸いなのです。
「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。」 (Ⅰペテロの手紙1章8-9節 p.366)
結 論)私たちのために十字架にかかり、復活された主イエスは、今も、聖霊により聖書の言葉を通して私たち一人ひとりに訪ねて来て下さり、語り掛けてくださっています。そして、信じるように招いておられます。
福音書記者ヨハネは、この福音書を書いた目的を記しています。(31)
主イエスを神の御子、私の救い主と信じる者は、罪赦され、永遠の命に生かされるのです。
主イエスに「あなたは神の御子、私の救い主です」と信仰告白しましょう。
主イエスは、信仰が与えられた私たちを、今、それぞれの場所に遣わしておられます。主との交わりを持ちつつ、主のご愛と恵みに満たされて生活し、主を証ししてまいりましょう。