ヨハネによる福音書20章1~18節

イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。        
ヨハネ20章16節 (p.176)

序 論)主イエスが十字架で死なれた後、その御体はすぐに 十字架から降ろされ、急いで墓に入れられました。夕暮れになると安息日(土曜日)に入るからでした。 (20章38~42節)  安息日が終わった週の初めの日(日曜日)の早朝、マグダラのマリヤたちは、主の葬られた墓に向かいます。そこで起こった出来事は…

1. 空の墓
  マリヤが墓のある所に着くと入口の石がとりのけられていました。(1) 彼女はこのことを伝えるため、急いでペテロともう一人の弟子(ヨハネ)のもとに向かいます。(2)
  二人が墓に着き、ペテロが中に入ってみると、亜麻布はありましたが主の御体はありませんでした。(6-7)
  後から入ったヨハネも、これを見て信じました。(8) この「信じた」は文脈から見ると、マリヤが言ったこと、すなわち墓が空であることを信じたということになります。
  しかし、ヨハネ福音書の中で出てくる「見て信じた」という言葉は、主イエスに対する信仰の意味で用いられていることが多いことから、ここでも、主への信仰という意味が込められていると考えられます。この出来事はヨハネにとっての復活の主への信仰の出発点となったのです。
  ただ、まだ彼らは、主の復活が旧約聖書に預言されていたことであり、神様の救いのご計画の中でなされたことを「まだ悟っていなかった」のです。(9)
  主イエスの復活と昇天の後、ペンテコステの日にペテロ は、旧約聖書を引用しつつ、主の復活を語ります。       (使徒行伝2章13-36節 p.182等)

2.マリヤの名を呼ばれる主イエス
  その後、二人の弟子たちは自分たちの家に帰りましたがマリヤは墓の外に立って泣いていました。そしてマリヤが中をのぞくと白い衣を着た御使いがいました。(10-12)   
  マリヤはまだ誰かが主イエスの御体を持ち去ったと考えていたのです。(13)
  彼女がうしろを振り向くとそこに主イエスが立っておられましたが、彼女は声をかけられても、その方が主だと気づかず園の番人だと思っていました。(14-15)
  主イエスがマリヤの名前を呼ばれたとき、彼女はやっとこの方が復活された主だと分かりました。(16)
マリヤに対して「わたしにさわってはいけません。」(「わたしにすがりついてはいけません」(新改訳))」(17)と言われた主イエスは、まもなくご自身が父なる神様のもとに昇られることをペテロたちに伝えるようにと語られます。
  そして、ペテロをはじめご自分を見捨てて逃げ去った弟子たちのことを親しく、「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。(17)
  そして、ご自身の父なる神様は、弟子たちにとっても父なる神であると言われました。(17)
御子イエス様の十字架と復活による罪の赦しと恵みをいただいた私たちも神様に「父なる神様」と親しく呼び掛けて祈ることができるのです。
  「彼らに伝えなさい」(17)との主イエスのお言葉に従いマリヤは喜んで弟子たちのところへ行きました。そこで主イエスに出会ったことと彼らに伝えるように言われたことを告げました。(18)

結 論)イエス様は、ご自分を羊飼い、弟子たちを羊にたとえてこのように言われました。「門番は彼(羊飼い)のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。」(ヨハネ福音書10章3節p.155)
  このときも主イエスは「良き羊飼い」としてご自身の羊 (マリヤ)を名前で呼ばれたのです。(16) 自分の名前を呼ばれる御声を聞いたとき、彼女はこのお方が復活された
主イエスだとわかり、主を「ラボ二」とお呼びすることができました。
   今も、主イエスは聖書の言葉を通して、私たちに語りかけてくださっています。そして、私たち一人ひとりのことを愛し、一人ひとりの名前を呼んでおられます。
 「なぜ、泣いているのか」(15) 悲嘆に暮れていたマリヤを主イエスは御声をかけられ、新たに立ち上がらせてくださいました。
 今、世界も、日本も苦難と試みの日々の中にあります。 イースターを共に迎えることができたこの日、主イエスの十字架と復活の恵みを新たに覚え、私の内に生きておられる主と共に、父なる神様に祈りながら、希望を持って歩んでまいりましょう。