そこでピラトはまた彼らに言った、「それでは、おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか。」 彼らは、また叫んだ、「十字架につけよ。」 マルコ15章12-13節 (p.79)
序 論)この章は、「夜が明けるとすぐに」(1)という言葉で始まっています。夜の間、一晩かけて、律法学者や祭司たちによる宗教議会での裁判がなされ、主イエスは死刑と 定められました。金曜日の早朝、今度は、当時ユダヤを支配していたローマの総督ピラトの前に引き出されたのです。主イエスとピラトとのやりとり、群衆の言動を通して示されることは…
1. 真の王であられる主イエス
ユダヤの宗教指導者たちは刑の執行を求めて、総督ピラトに主イエスを引き渡しました。(1) ピラトは、ローマから総督としてユダヤ地方の統治のために派遣されていました。(AD26年頃~36年)
彼らは、イエスが王と名乗り、皇帝の権力を脅かす存在だと訴えました。(ルカ23章1-2節 p.130)
それでピラトは主に「あなたがユダヤ人の王であるか」(2)と尋ねます。主は答えられます(2)。この言葉の直訳は「あなたはそのように言った」です。そう言っているのは「あなた」である、と強調され、ピラトが考えている王権と天の御国の王権とは違うことを暗示なさったのです。
祭司長側の厳しい訴えにひるまず、ピラトは主イエスに公正に弁明の機会を与えようとします。(3-4)
しかし、主は、イザヤ書の「苦難の僕」のように口を開かれませんでした。「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、 口を開かなかった。」(イザヤ書53章7節 p.1022)
ピラトは無実である主イエスの沈黙を不思議に思います。(5)
主イエスは、ただ「ユダヤ人の王」ではなく、御国の王、すべての人の真の王として地上に来てくださったのです。
2.罪人の身代わりとして
祭りのときに、「人々が願い出る囚人ひとり」(6)を赦免する習慣がありました。
群衆はピラトに赦免を求めます。(8) 彼は、祭司長たちが主イエスを引き渡したのは、彼らのねたみのためであると分かっていたので、群衆は主イエスの赦免を願うものと 思っていました。(9)
ところがピラトの予想に反して、群衆はバラバの釈放を求めたのです(7、11)。その背後には祭司長たちの扇動がありました。
群衆はここまで、ユダヤの指導者たちの敵意から主イエスを守る役割を果たしてきましたが、ここで、主を攻撃する側に回ってしまいました。
ピラトは、主イエスを何とかゆるしてやりたいと思い、群衆を抑えようとしますが、群衆はますます激しく、「十字架につけよ」と叫びました。(14)
ピラトは「群衆を満足させようと思って」、バラバを釈放し、主イエスを鞭打ち、十字架につけるためにローマの兵士たちに引き渡しました。(15)
ピラトにとって任地で民衆の暴動が起こることは、自分の立場が危うくなることなので、それを避けたいという思いがあったのです。
公正なさばきをするべき総督が、群衆の要求に屈してしまった点において、彼も主イエスを十字架につけてしまった責任を免れることはできません。
結 論) 総督ピラトは、後日、使徒信条の中に「…ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、死にて葬られ…」とその名が記されることになりました。
ポンテオ・ピラトは全人類の代表であり、自己保身のために裁きを曲げた彼の罪の姿に私たちの罪も表されています。
ピラトだけでなく、祭司長や長老たちのねたみ、また、すぐに扇動されて態度を変えてしまう群衆の無知の姿にも 私たちの罪や自分たちの姿が重なります。
いずれも私たちの内にもある罪ですが、それらすべての 罪に対する罰を主イエスは十字架の上で負って死んでくださったのです。
また、主イエスの命と引き換えに釈放されたバラバのその後は聖書には記されていません。
主イエスはバラバの身代わりとなって十字架に向かわれました。主イエスの十字架はバラバのためだけではありません。私たちの一人ひとりの罪のための身代わりの十字架なのです。
その福音を知り、主イエスを信じる私たち一人ひとりが 「罪赦されたバラバ」として主の恵みに応えて歩んでいくことを神様は願っておられるのです。
十字架で死なれ、復活され、天の御座に着かれた主イエスは今も生きて私たちに語り掛けられ、働きかけておられます。 私の真の王、人生の導き手である主イエスに従い続けてまいりましょう。