マタイによる福音書20章20~28節

 …それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。         マタイ20章28節 (p.32)

序 論)エルサレムに向かわれる途中、主イエスは、弟子たちに三度目の受難予告をされました。(17-19)しかし、まだ彼らは、その意味がよく分かっていませんでした。この後の彼らの言動と主イエスのみ言葉から示されることは…

1. 何を求めているのか
   ゼベダイの子であるヤコブとヨハネの母親は、主イエスに二人の息子が御国において重要な位置に着くことを求めました。(20-21)
  主イエスは二人の弟子たちに語られます。(22a) ここでの「杯」は、間もなく主イエスが受けられる十字架の御苦しみを指しています。これを飲むとは、彼らが主のために受ける苦しみに耐えることを意味します。
  その問いに対して二人は、深く考えず、「できます」と答えました。(22b) それに対して、主イエスは「確かに…飲むことになろう」と、彼らの生涯を見通されて言われます。(23a)
主の予告された通り、後日、実際にヤコブは教会における最初の殉教者となりました。(使徒12章2節 p.201)  ヨハネも晩年、厳しい迫害を受け、パトモス島に流刑になりました。(ヨハネの黙示録1章9節 p.386)
他の十人の弟子たちは、二人の「抜け駆け」に憤慨しま  した。(24) 彼らの反応は、自分が他の弟子たちよりも、高い地位に就きたいという思いが全員の心の中にあったことを示しています。
  先に、主イエスは、幼な子のように自分を低くする者が天の御国では、一番偉いのだと教えられましたが、(マタイ18章4節 p.28) 弟子たちはまだそのことが分かっていなかったのです。
  主イエスは私たちにも「あなたがたは何を求めていますか」と問われています。   私たちの心の奥にも、自分が偉くなりたい、認められたいという思いが潜んでいないでしょうか。それに気づかされたときが、新たに主を仰ぎ、悔い改める時です。
  自分の地位や栄光ではなく、主イエスの御名の栄光のために歩ませていただきましょう。   

2.主にならい仕える者となる
  主イエスは弟子たちに、異邦人の支配者たちや権力者たちとは正反対の生き方を教えられました。(25-27) 「仕える人」(26)とは、主人の願いに応え、忠実に働く人です。「僕」(27)は、より深く謙遜に仕える者となるようにとの思いが込められた言葉です。   そして、主イエスはそのように歩まれて弟子たちに模範を示されました。(28)
主イエスは、十字架にかかられる前夜、自ら手ぬぐいをとって弟子たち一人ひとりの足を洗われました。         (ヨハネ13章4~5節 p.162)
 そして、最後にはご自分の命さえも与えると言われました。「あがない」(贖い)は、当時、戦争の捕虜を釈放したり、奴隷を自由にするときに、それまでの所有者に対価として支払われていたお金のことを意味していました。(新改訳では「贖いの代価」、新共同訳では「身代金」と訳されている)
  ここでの「多くの人の」(28)は「すべての人のための」という意味で用いられています。この言葉通り、主イエスは、すべての人を罪と滅びから救うために、ご自分の命を十字架の上で与えてくださったのです。
  私たちが救われるために、仕え、働き、私たちの身代わりとして命さえも捨ててくださいました。

結 論) 主イエスは、はじめに二人の弟子たちの願いを知られたとき、彼らに御国での地位を約束したりなさいませんでした。(23b) これは父なる神様の主権のもとに決められることであり、主イエスは神様にすべて委ねておられました。主は、神から与えられたご自分の使命を果たすためただひたすら 「主の僕」として歩まれたのです。
 主イエスの十字架と復活の後、この二人の弟子たち、他の弟子たちも、主のご愛と聖霊の力によって、神様のために仕え、働く者、人を愛し、与える者へと造り変えられました。
 主は、私たちもそのような者へと造り変えてくださいます。私たちは父なる神様にお委ねし、主のあわれみによりすがりながら、主に従う道を歩んでまいりましょう。