マタイによる福音書9章1~8節

 「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」 …「…しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。 
   マタイ9章2、6節 (p.12)

序 論)主イエスは、カペナウムのある家で教えておられました。そこには大勢の人々が集まり、家の入り口までいっぱいになっていました。そこへ一人の中風(体が麻痺してしまう病気)の人が、四人に運ばれてやってきました。主がこの人に言われ、なされたことから示されることは…

1. 罪の赦しの宣言
   彼らは家の戸口まで来ましたが、大勢の人たちがいたの  で主イエスに近づくことができなかったのです。
  そこで、家の外側から屋上に上がる階段をのぼり、屋根をはいで大きな穴を開けました。そして、病人を床のまま主イエスの話しておられたすぐ近くに吊り降ろしたのです。 (マルコによる福音書2章4節 p.53   ルカによる福音書9章16節 p.92)
  しかし、主イエスは、すぐに彼の病を癒そうとはされませんでした。
  主は「彼らの信仰を見て」(2)、まず彼に対して罪の赦しを宣言されました。「彼ら」とは、病者本人と運んできた者たち四人のことです。彼らは、主イエスの癒しの力を信じて、なんとしても主のみもとに行こうと主の御前に出ました。主はそれを彼らの「信仰」と見られたのです。
  また主が彼に「子よ、…」と親しみを込めて呼びかけられた言葉にも主のあわれみが込められています。
  主イエスが彼に向って罪の赦しを宣言されると、律法学 者たちは、心の中でつぶやきました(3)。それは、彼らは罪を赦すことができるのは神様だけだと考えていたからでした。彼らは主イエスが神であることを認めていませんでした。ですから神以外の者が罪を赦すなどと言うのは、とんでもない罪だと思ったのです。
しかし、この箇所で示されていることは、罪こそが人類にとっての根本問題あることです。そして、自分たちの力ではどうすることもできない罪から人間を救うために 主イエスは地上に来て下さったのです。

 2.罪を赦される主イエスの権威
   彼らの心の声を聞かれた主イエスは彼らに問われます(4-5)。私たち人間同士の間では、罪が本当に赦されたのかどうか、だれも見ることはできません。罪を赦したと口先だけで言うことができます。
  しかし、中風の人のいやしは、結果がすぐにわかります。私たち人間にとってはこちらの方が難しいように思えます。
  しかし、本当は病気をいやすことよりも罪を赦すことの方がはるかに難しいのです。それは、ただ神によって与えられることだからです。それで、イエス様はご自分が神の御子であり、罪を赦す権威をもっておられることを示すために、そのように言われ、この人を癒し、立ち上がらせられました。(6-7)
   こうして、主イエスの罪の赦しの権威が真実であることが明らかにされました。 この奇跡のわざを見た群衆は「恐れ」(畏怖の念)を持ちました(8)。まだイエス様が神の御子であることは分かっていませんでしたが、イエス様に力を与えられた神様を崇めました。

結 論) 私たちにとって最も大きな問題は罪と死です。どちらも自分の力ではどうすることもできません。神の御子イエス様だけが、私たちの罪を赦し、私たちを永遠の命に生かすことができるお方です。
 主イエスは、私たちの罪の罰を身代わりとして十字架の上で受けて死なれ、復活されることによって救いのみわざを成し遂げられました。
 イエス様を神の御子、私の救い主と信じ、心に受け入れるとき、私たちは罪赦され、永遠の命に生かされるのです。 私たちも主の罪の赦しと主からの「あなたの罪は赦された」という宣言をいただいた者たちです。 今回の聖書箇所の病気で長い間、苦しんでいたこの人のため、四人はこれまでとりなし祈ったことでしょう。そして、彼が何とか良くなってほしいと願い、彼を主イエスのみもとにまで運んできました。彼らは、共に主の御前に出たのです。
 私たちも隣人のためにとりなし祈り、共に主のみもとに行き、主の恵みとご愛に共にあずかりましょう。