使徒行伝9章1~19a節

ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。…」
                                 使徒9章3-5節 (p.195)

序 論)サウロ(パウロ)は神に従うことにおいて誰よりも熱心な人でした。
イエス様がキリスト(救い主)であることを否定し、これを伝えていたキリスト信者たちを迫害していました。しかし、彼はダマスコ途上でキリストに出会います。
その時、主イエスが語られたことと、その後、サウロに起こったことは…

1. 主イエスの光に照らされて
   真昼ごろ、ダマスコへ行く途中、サウロは突然、天から  の光に照らされました。(3) 彼は地面に倒れてしまいました。サウロに呼びかけた声の主は復活されたイエス様でした。主イエスは「わたしはあなたが迫害しているイエスである」  と言われます(5)。キリスト者への迫害行為は、イエス様ご自身への迫害行為と同じであると言われます。このことは、キリストと教会が一体であることを示しています。教会が苦しむとき、イエス様ご自身も苦しんでおられるのです。
 次に主イエスは、「さあ立って、町にはいって行きなさい。」と命じられます(6)。そして、「そこであなたのなすべき事が告げられるだろう」と語られました。それは、今までのサウロが望んでいたことと全く逆のことでした。
  主イエスがここで「あなたのなすべき事」と言われたように、キリスト者とは、自分のしたいことをするのではなく、キリストが望んでいることをする人です。  

2.主から新しい使命を与えられる
  光に照らされたサウロは、目が見えなくなってしまいました。(8) 神様は人間に対し、しばしば、悪しき企てを止めさせたり、心をご自身に向けさせるために一時的に目を見えなくされることがあります。  (創世記19章11節 p.21 (列王記下6章18~20節 p.529)
  このとき神様が、サウロの目をふさがれたのは、迫害を止めさせるためであり、今までの自分のしてきたことを悔い改め、復活された主イエスとの出会いとみ言葉を深く黙想する時をお与えになるためでした。
  彼の「三日間」(9)の断食の期間は、彼にとっての祈りの時でした。
  主はアナニヤにパウロのもとに行くように命じられます。彼は「律法に忠実で、ダマスコ在住のユダヤ人全体に評判のよい」人でした。(使徒22章12節 p.220)  主イエスは彼にサウロの使命を伝えます。(15-16)
       サウロが迫害者であることを聞いていたアナニヤでしたが、主イエスの命令を受けてサウロを訪ねます。彼は、サウロの上に手を置き、「兄弟サウロよ、…」と呼びかけました。(17) 彼は、キリストの愛を受けて、サウロの罪を赦し、愛をもって語りかけたのです。
  そのとき「サウロの目から、うろこのようなものが落ちた」(18)ことは、彼の肉眼だけでなく霊の目も開かれたことを示しています。彼は、イエス様を神の御子、救い主と信じて、バプテスマを受けました。
  イエス様はサウロ(パウロ)のことを「わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である」と言われました (15)。「器」は何かを入れる役目をするものです。パウロは主イエスを内にいただきました。主イエスは彼と共に生きられ、彼を宣教のために用いられたのです。
  私たちも、主イエスを内にいただき、それぞれの使命を果たすために主イエスから選ばれた「器」なのです。 結 論) サウロを天から照らした、主イエスの光は、今も 私たちの心を照らし続けています。特に聖書のみ言葉の光を通して私たちの心を照らします。  (詩篇 119篇105節 p.859) 
      主イエスは時には、私たちの心を雷の光のように激しくまぶしく照らされることがあります。また時には、ロウソクの光のようにやさしく静かにそれをなさるときがあります。どちらにしても、主イエスは、み言葉によって語りかけられ、私たちの心を照らされます。
そして、私たちに自分の罪や過ちに気づかせてくださり、愛と赦しを与えて、私たちを造り変えてくださるのです。
  主の光に照らされ、自分のなすべき事を示していただき、その使命を果たすことができるよう祈りながら、さらに主イエスを信じ、従ってまいりましょう。