使徒行伝8章26~40節

 そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。 ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。       使徒8章38-39節 (p.195)

序 論)迫害で散らされた人たちの中に、ピリポという人がいました。この人はステパノと同様、教会の奉仕者に選ばれた、「信仰と聖霊に満ちた人」(6章5節)でした。
 彼はサマリヤの町に行き、み言葉を宣べ伝えました(4)。 町の多くの人々がピリポの宣教を通して、イエス様を信じ バプテスマ(洗礼)を受けました。
  その後、主の使いは、ピリポを荒れ果てた道へ導かれます。そこで、出会った宦官とのやりとりを通して行われたことと起こった出来事は…

1. 聖書の解き明かし
    ピリポが出会ったエチオピア人の宦官は、エルサレムでの礼拝を終え、エチオピアに帰る途中でした。彼は、馬車に乗り、(旧約)聖書(当時は巻物)を読んでいました。(28)。  (当時の「読む」は「朗読する」ことでした。)
  ピリポは聖霊に促されて、彼に近づき話しかけます。(30)  「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」(31)と彼は答えます。
  み言葉の意味を教えてくれる人を求めていた宦官は、ピリポを馬車に招きました。
その時、彼が読んでいたのは、キリストが苦難を受けられることを預言した、イザヤ書53章の箇所でした。(32-33節)(イザヤ書53章7~8節 p.1022)
 ピリポは宦官に、預言者イザヤが告げるこの「彼」は、イエス様のことであり、イエス様がキリスト(救い主)であ  ることを証ししました。
  私たちも、日々、祈りながら旧約、新約聖書を読むことと共に、教会の礼拝や集会の中で、一緒に聖書の解き明かしを聞くことにより、福音を正しく理解し、み言葉の恵みを互いに分かち合うことが必要です。そのことを通して、み言葉の深い意味が示され、神様のご愛と主イエスの恵みをさらに深く知ることができるのです。  

2.洗礼を受け、喜びにあふれて
  宦官は熱心にピリポの話を聞き、「イエス・キリストを神の子と信じます。」と告白し、バプテスマを受けることを願いました。(36-37) 二人は馬車から降りて水辺に行き、ピリポは宦官に イエス様を信じたしるしのバプテスマを授けました(38)。
  洗礼式が終わり、二人が水から上がるとすぐ、ピリポの姿は見えなくなっていました。聖霊がピリポを新しい働きの場に連れていったのです。(39、40)
  一方、宦官は喜びながら帰っていきました。「宦官は、…、喜びにあふれて旅を続けた。」(39)(新共同訳) このエチオピア人への伝道は、ユダヤ人、サマリヤ人以外の外国の人に行われた初めての伝道でした。彼はエチオピアに  帰った後、罪から救われた喜びを周りの人たちにも伝えたことでしょう。
  神様が宦官のもとにピリポを遣わされたように、私たちや私たちの教会も、聖霊により、神様を求め、救い主を求めている人に出会うように遣わされています。日々、聖書に親しみ、祈りながら、イエス様が神の御子、救い主であることを証しすることができるように備えましょう。

結 論) 宦官は、エチオピアに帰った後、女王に仕えるというそれまでと同じ仕事を続けたことでしょう。でも、彼は、今までとは違う大きな喜びの中でその生涯を歩んだに違いありません。
   ピリポの宣教の結果、サマリヤの人々の心にも、宦官の 心にも喜びが与えられました。福音が語られる所、イエス様が証しされる所には、喜びが起こります。救いのみわざが、人になされるとき、その人の中に喜びが生まれます。「喜びの知らせ」と言われる福音は、私たちの魂に、この世の喜びとは全く違う喜びを湧きあがらせるのです。
 私たちの人生の歩みの中には、いろいろな困難や問題や 苦しみ、悲しみがあります。しかし、神様の御前に出て祈り、その中である時には自分の罪や足りなさを示され、悔い改めて、さらに大きな主の赦しの恵みとご愛に触れることがあり、またある時には一歩を踏み出す勇気が与えられ課題を乗り越えていく力や励ましをいただきます。  そして、更には、後で自分の歩みを振り返るとき、主の愛の御手の中で導かれ、支えられてきたことに気づき、主にある喜びが与えられるのです。
 主イエスとお出会いし、信じる者とさせていただいた恵みを感謝し、主イエスと共に祝福と命の道を歩み続けてまいりましょう。