ヘブル人への手紙12章1~3節

 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。              ヘブル12章2節 (p.356)

序 論)ヘブル人への手紙は、旧約聖書の言葉の多くの引用によってキリストが旧約時代のどんな人物や制度よりもすぐれたお方であること、キリストの優越性、至高性を証ししています。今回の箇所を通して示されることは…

1. 自分に与えられている道を走り続ける
   ヘブル書の著者は、ここで、信仰生活を競走にたとえています。「多くの証人」(1)は、11章に記されている旧約の信仰者たち、神様を信じて従った無数の人々のことです。私たちにとっては今までの歴史の中で主イエスを信じ、従ったキリスト者も含まれていると受け止めることができます。先駆けて信仰の道を走り抜いた人たちは、今は御国においてゴールの栄冠を受けることが確実であることを証しする人たちです。そして、今、競争者として走っている人たちを応援する声援者です。
  ここでの「重荷」(1)は当時のトラック走者が訓練の腰に付けて走った「重り」のことだと言われています。この「重荷」が何を意味しているか、様々に解釈することができま  すが、次の「からみつく罪」との関わりで、これも罪のことを示していると解釈することができます。
  「重荷」や「からみつくもの(裾(すそ))」があるままでは、競走の邪魔になります。それらの罪をかなぐり捨て、重荷 をイエス様にあずけて、出来る限り「軽装(身を軽くして)(罪や思い煩いから解放されて)」で走るようにと勧めます。
  「耐え忍んで」(1)は、「中途で止めないで」という意味も含んでいます。当時の教会にはキリストを信じて歩み始めたにも関わらず、周りからの圧力でユダヤ人の宗教と習慣に舞い戻りかけていた人たちがいました。この言葉はそのような人たちへの忠告と励ましの言葉でもありました。
  私たちは罪の重荷を主イエスに委ねて、主と共に信仰の道、神様が備えて下さった道を走り続けます。

 2.主イエスを仰ぎ見て走り続ける
  「信仰の導き手」(2)は「信仰の創始者」(新改訳)とも訳されています。信仰の源になられたお方、先立って道を開いて下さったお方という意味です。
  父なる神様への信頼を「十字架の死に至るまで」身をもって示された究極の信仰者、完成者がイエス様です。 (ピリピ人への手紙2章8節 p.309)
 「自分の前に置かれている喜びのゆえに」(2)の「喜び」は、十字架の死の後に、復活されて弟子たちのところに来て下さり、彼らと一緒にもたれる喜び、贖(あがな)いを完成される喜びです。
  イエス様は、私たちの救いのために、十字架の苦しみと恥ずかしめ、死を忍び、受け止めて下さいました。それ故に父なる神様は、イエス様を復活させられました。主は、昇天され、神の御座の右に座されました。(2)それは、神様が御子イエス様に与えられる最高の高挙と栄誉です。
  「罪人らのこのような反抗」(3)とは、当時の為政者や宗教指導者たち、民衆のイエス様に対する不信仰のことです。主イエスの十字架刑は、これらの人々や弟子たちさえ含んだすべての人間の不信仰の結果であり、罪人たちの反抗によるものでした。
  イエス様は、そのような反抗を耐え忍ばれ、罪と死と悪魔に打ち勝ってくださいました。このイエス様のことを思いみるべきであるとヘブル書の著者は勧めます。(3)
  イエス様が天の父なる神様に信頼し勝利されたように、私たちもどこまでもイエス様に信頼して進みます。  

結 論) 救いのみわざを完成してくださったイエス様を仰 ぎ見、心を向け、全き信頼をもって進みましょう。
 私が自分で成すのではなく、完成者である主イエスが私たちのそれぞれの信仰の生涯を全うさせてくださいます。
 先人たちはイエス様を信じ、従い続けてその信仰の生涯を全うし御国に移されました。私たちも彼らの信仰にならい、イエス様を信じ、従い続け、新しい一年も進んでまいりましょう。