ヨハネによる福音書1章1~14節

光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。…すべての人を照すまことの光があって、世にきた。        ヨハネ1章5、9節 (p.85)

序 論)ヨハネは、この福音書の書き出しで「初めに言があった。…」(1)と記します。ヨハネの内には創世記1章1節の「はじめに神は天と地とを創造された。」の言葉があったことでしょう。ヨハネはこの福音書で「人の新創造」について語ります。今回の箇所を通して示されることは…

1.光なるキリスト
   ヨハネは、1節でキリスト(救い主)のことを「言(ギリシャ語では「ロゴス」)」と表現しました。
  当時、すでに福音がユダヤ人の間だけでなく、異邦人(地中海周辺世界 ギリシャ語圏)の間にも広がっていました。
  この「言」であるキリストは、天地創造以前に「神と共におられた」(3)お方です。
  神の御子キリストは、父なる神と永遠の交わりの中におられたお方なのです。創造のみわざは、「三位一体の神」  (父なる神、御子なる神、聖霊なる神)によってなされまし  た。「すべてのものは、これ(ロゴス)によってできた」(3)  「世(世界)は彼(御子キリスト)によってできた。」(10)の です。
  「この言に命があった。」(4) イエス様は永遠の命を持たれるお方、それを人に与えることのできるお方です。そして、光としてこの世に来てくださいました。
 ヨハネは、「罪の世」を「やみ」と言います。悪の力は闇(やみ)の力です。人が神様から離れるほど、闇の力は増すのです。
 後に、弟子のユダがイエス様を裏切って去って行ったとき、このヨハネ福音書は「時は夜(闇を象徴する言葉)で あった。」(13章30節 p.164)と語ります。 しかし「やみはこれ(キリスト)に勝たなかった。」(5)のです。イエス様は、どんなに深く、濃い闇をも照らす神の光、命の光です。
 父なる神様が、イエス様より前に地上に遣わされたのが 洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)でした。ヨハネは、光であるイエス様が神の御子、救い主であることを証しする 使命を与えられていました(6-8)。   

2.キリストを受け入れる者の特権
  イエス様は「すべての人を照すまことの光」(9)としてこの地上に来てくださいました。「まことの」は「真実な」、  「本当の」という意味です。キリストは、暗黒の世界に輝く唯一の、本当の光として来られました。
  イエス様が「自分のところ」に来られたのに、ご自分の民は受け入れませんでした。ここでの「自分のところ」(11)とは「ご自分の国」のことで、イスラエルのことです。
 イスラエルの民はイエス様を受け入れず、拒み、ユダヤの宗教指導者たちは、主を十字架につけてしまいました(11)。
  しかし、三日後に、神様はイエス様を復活させられました。罪も死も、悪魔も「まことの光」を消すことはできませんでした。
  イエス様を神の御子、救い主と信じ、心に受け入れた人はだれでも神の子とされる特権(力)を与えられるのです。それは神様の恵みです。(12)
  先祖にだれかを持つということでも、人間的な力でも努力によるのでもありません。ただイエス様を神の子と信じることによって新生の恵みにあずかるのです。  

結 論) イエス様は「めぐみとまこととに満ちていた」(14)。「まこと」の原語は「真実」とも訳せる言葉です。 主イエスは、どんなときも真実なお方です。
 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩みことがなく、いのちの光を持ちます。」    (ヨハネによる福音書8章12節 新改訳2017)
   イエス・キリストによって私たちを罪から救い、神の子となる特権を与えてくださった神様に感謝し、真実な主に 信頼しつつ、歩み続けてまいりましょう。

 (参考) 『光は暗きに照る』(田辺 保(1930-2008))