使徒行伝6章51~60節

しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。             使徒7章55-56節 (p.192)

序 論)ユダヤの議会で、議員たちにステパノはイスラエルの歴史、アブラハム、ヨセフ、モーセたちについて語りました (7章2~50節)。そして、イエス様が救い主であることを証 しします。説教を聞いた人たちの反応と、ステパノの言動は …

1. 聖霊に逆らう人たち
  「心にも耳にも割礼のない人たち」(51)は、イスラエルの人たちのかたくなさを表しています。 (申命記10章16節 p.261 参照)
ステパノが指摘したようにイスラエルの民は、アブラハムの時代以来、神様の御守りと導きの中にあったのに、「いつも聖霊に逆らって」いました(51)。
  神様は彼らに「預言者」(52)を送り、「律法」(53)を与えられました。彼らは預言者たちを迫害し、神様を心から礼拝することなく、神殿礼拝や律法の形式に心が囚われていました。
  そして、神様は「正しい方」(52)、イエス・キリストを送られました。しかし、イスラエルの民、宗教指導者たちかイエス様を受け入れず、死に至らしめてしまいました。     神様は、イスラエルの人々が、自分たちの罪を認め、悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れることを願っておられました。しかし、聖霊に逆らう者となってしまったのです。
  神様は今も、救い主イエス様を心に受け入れることを願われ、聖霊と聖書のみ言葉を通して語りかけておられます。

 2.聖霊に満たされ、天を見つめて
  議会の人たちや傍聴者たちは、「心の底から激しく怒り」  (「はらわたが煮え返る思いで…」新改訳)ました(54)。
  しかし、ステパノは「聖霊に満たされて、天を見つめて」(55)いました。彼は、神の栄光の御座と、神の右におられる主イエスを見ました。
  いつもは、神の右の御座に座っておられるイエス様が、この時、立ち上がってステパノを見つめておられたのです(55,56)。主イエスが、彼に御手を差し伸べ、御手をもって支え、そしてご自分のもとへ迎えようとしておられる、その主イエスの御姿を彼ははっきりと見たのです。
  彼らはステパノの言葉を冷静に受け止めることができず、 彼を捕らえ、市外に引き出し、石打ちの刑にします。(58)
彼は天を仰ぎ、「主イエスよ、…」と祈り、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい。」(59-60)、とイエス様と同じとりなしの祈りをささげて殉教しました。
(ルカによる福音書23章34節 p.131)
  主の証人として地上の生涯の道を歩み終えて、ステパノは眠りにつきました(60)。「眠りにつく」という言葉は、やがて再び「目覚める」(復活する)日が来ることを暗示し  ています。

結 論) ステパノは聖霊に満たされた人でした。(6章5節) 彼は日々の歩みの中で天におられる主イエスとの交わりを持っていました。また彼の殉教の姿を見ると、彼は天が開かれた人であったことも示されます。
 ステパノの姿を通して、聖霊に満たされた人とは天が開かれた人であり、日々の生活の中で父なる神様に祈り、イエス様と交わりを持っている人であることを教えられます。
  私たちも聖霊によって、天におられる主を仰ぐことができ、主イエスの御名を通して父なる神様に祈ることができるのです。
  聖書を読み、祈る時(自分で定めたデボーションの時)だけでなく、苦しい時も日常の生活の時も、イエス様を見上げ、心を向け、イエス様との関係、交わりをさらに深めていきましょう。

 (参考文献) 『キリストにならいて』トマス・ア・ケンピス                (1379-1341) 「私に従うものは暗(やみ)の中を歩まない、と主は言われる。このキリストの言葉は、もし本当に私たちが光に照らされ、あらゆる心の盲目さを免れたいと願うならば、彼の生涯と振る舞いとにならえと、訓(おし)えるものである。それゆえキリストの生涯に深く想いをいたすよう、私たちは心を尽くして努むべきである。…たとえ聖書のすべてを外面的に知り、あらゆる哲学者の言ったことを知るとしても、神の愛と恵みがなければ、その全てに何の益があろう。…天国に向かうこと、これが最高の知恵である。」(第1巻の第1章の言葉より)