その時、しもべたちは彼に近よって言った、「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。 そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。 列王記下5章13-14節 (p.527)
序 論)今から2800年ほど前、イスラエルの国とスリヤ(アラム)の国が戦っていました。スリヤのナアマン(原語では 「慈悲深い」という意味)は、大勇士で王にも絶大な信頼を置かれている偉大な将軍でした。しかし、彼には隠れたところに大きな悩みがありました。それは重い皮膚病にかかっていたことです。
あるとき、ナアマンは、イスラエルにその病をいやすことのできる神の預言者がいることを自分の家で仕えていたイスラエル出身の少女を通して知りました。(2-3) そして彼に会いに行こうとします。後に預言者エリシャが語ったことと、その言葉を聞いたナアマンがしたことは…
1. エリシャの言葉
ナアマンはスリヤの王に外出許可とイスラエルの王宛の手紙(「ナアマンの病をいやして下さい」という依頼が書かれたもの)をもらい、贈り物を携えて出かけていきました。
イスラエルの王は手紙を読むと、スリヤの王が無理な要求で言いがかりをつけようとしていると誤解してしまいました。(7)
それを知ったエリシャは、イスラエルの王に「ナアマンを私のところに来させなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう。」(8)と伝えました。
ナアマンはエリシャの家の入り口まで来ます。(9)しかし、出てきたのはエリシャの使いの者でした。彼は、ナアマンに「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」 (10)と言いました。
これに対してナアマンは激怒しました。エリシャ本人は応対せず、自分の国スリヤの川より小さくて汚れているヨルダン川に体を浸せとは。こんな簡単な手段は、身分の高いナアマンが望んでいた治療法ではなかったし、エリシャの応対も無礼だと感じたのです。
2.信仰による癒し
怒って去ろうとするナアマンにしもべたちが言いました。
「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか。」(13)と。
ナアマンは自分の病気が重いため、簡単な方法でよいはずがないと思いました。しかし、この病の癒しは困難で、神様の力がなければ不可能でした。
はじめ、ナアマンは自分がへりくだって神様の方法に従うことに気が進みませんでした。スリヤの川ではなくヨルダン川が用いられたのは、いやしは川の水ではなく神様がなさるものであることを示すためでした。エリシャの命令はナアマンに神様の前での謙遜と信仰を教えるためでした。
気を取り直したナアマンは、ヨルダン川へ下って行き、言われた通り、川の中に七回身を浸しました。(14) すると幼な子の体のようにきれいになりました。
彼はエリシャの言葉が納得できず受け入れがたくても自分のプライドを捨て、その言葉に従いました。神様は神の言葉に従うというナアマンの信仰を見ていやして下さったのです。もしナアマンが願っていた方法で癒されたら神様ではなくエリシャがいやしてくれたと勘違いしたり、プライドの高い人間のままだったかもしれません。
いやされたナアマンは、イスラエルの神様、創造主なる神様を信じます、と告白しました。(15)
結 論) 大勇士ナアマンでさえ、隠れた悩みがありました。 同じように私たちにも様々な悩みがあります。でも神様は私たち一人ひとりの悩みをよくご存じであり、助けの御手 で守り、支え、導こうとしておられます。 ナアマンが預言者エリシャのもとに行ったように、私たちもイエス様のもとに行き、父なる神様にお祈りしましょう。神様が必ず道を示し、良き導きを与えて下さいます。 ナアマンは、何か別の方法や苦行でいやされるのだと思っていました。私たちも自分の罪や心の汚れを、何かの行いや苦行等で解決しようしてしまいます。 しかし、ナアマンが、預言者エリシャに言われた通りしたように、私たちも、神様が定めて下さった方法の通りにすれば良いのです。 それは、自分が罪ある者であることを認め、イエス様の十字架は私の罪の赦しのためであったと信じることです。
御子イエス様が十字架で流された血によって、私たちはすべての罪からきよめられるのです。
「…御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」
(ヨハネの第一の手紙1章7節 p.376)
イエス・キリストを信じ、救いの恵み、きよめの恵みにあずかりましょう。