使徒行伝7章35~53節

この人が、イスラエル人たちに、『神はわたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟たちの中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう』と言ったモーセである。 この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使や先祖たちと共に、荒野における集会にいて、生ける御言葉を授かり、それをあなたがたに伝えたのである。
  使徒行伝7章37-38節 (p.191)

序 論)ステパノは、続いてイスラエルの歴史を語ります。 主なる神ご自身がモーセを、指導者、解放者としてお立てになりました。そしてエジプトに遣わされました。モーセやイスラエルの民、王たち、預言者の言動を通してステパノが伝えようとしてことは…

1. 生ける御言葉(命の言葉)が与えられた
   モーセは神様とイスラエルの民との間に立って「生ける御言葉」(「命の言葉」新共同訳)(38))を受け、それを伝えました。神様が与えて下さった律法は、神様の民を生かす言葉でした。 しかし、今、ユダヤの宗教指導者たちは、律法を神の絶対の掟として位置づけ、それを守り行うことが神の民の印だと主張していました。それは、モーセの与えた律法に対する正しい理解だろうかと、ステパノは問うています。彼らは律法の最も大切な教えである、神を愛し、隣人を愛する愛を失っていました。
  律法そのものを絶対視し、神と人への愛を失うことは、かつてイスラエルの先祖たちが、モーセに聞き従わずに目に見える雄牛の像を造ってそれを拝んだ偶像礼拝と同じ過ちなのだと言います。(39-41)(出エジプト記32章 p.121)
  さらにステパノはイスラエルの民が荒れ野の旅路においていろいろな偶像を拝んだことを語ります。(42-43) ここでは、旧約のアモス書5章25-27節(p.1272)が引用されています。
  私たちも真の神様以外のものを神として拝してしまいやすい者です。
  まことのイスラエルとは、アブラハム以来、神様の約束のみ言葉、命の言葉によってのみ旅立ち、神様の導きに身を委ねて歩む者です。モーセもそのように歩んだのです。  

2.モーセにまさる預言者、正しい方
  神様がイスラエルの民に与えた「あかしの幕屋」は、シナイ山上でモーセが「見たままの型」でした。それは神様の「ご命令どおり」の作品でした(44)。
  神様は偶像礼拝の罪を犯した民のためにも神の臨在を示すあかしの幕屋を与えられ、この幕屋を受け継いだ人々が約束の地(カナン)を獲得したのです。
  ステパノは、幕屋が長期にわたりイスラエルの礼拝生活の中心だったことを指摘します。そのことを通して、神殿を絶対視する宗教指導者たちの信仰を批判しました。   神殿を建設したソロモン自身、神様は「手で造った家の内にはお住みにならない」ことを知っていました。(列王紀上8章27節 p.489 参照)
  そして、ステパノはモーセが預言した「ひとりの預言者」 (「わたしのようなひとりの預言者」(新改訳))(37)こそ  イエス様であることを証しします。
  かつて指導者モーセを拒んだイスラエルの民の子孫である、議会に集まっている人たちはイエス様を受け入れませんでした。旧約の預言者を迫害した民は、この時代にも  「正しい方」(52)、主イエスを殺す者となったのです。
  しかし、十字架の上で死なれたイエス様は復活され天に昇り、父なる神の右に座されました。「信仰と聖霊に満ちた人」(使徒6章5節 p.189)ステパノは聖霊によって祈り、父なる神を礼拝し、主イエス様 との交わりに生きていたのです。  

結 論) ステパノの長い説教(7章2~53節)は、神の民の 本質は生ける御言葉、命の言葉、神の言葉に従順に従うことであり、神殿礼拝もその代わりにはならないことを教えています。これは現代においても真理です。神の言葉に従うことは、どんな奉仕や献金よりも重要なことなのです。
   私たちは礼拝を通し、イエス・キリストを証しする聖書のみ言葉を聞きます。イエス様は、この礼拝において、み言葉と聖餐とによって、私たちの真ん中にいて下さり、私たちに出会って下さり、交わりの時を与えて下さるのです。 そして、そのことを本当に実現させて下さるのは聖霊です。
  私たちは聖霊のお働きを信じて祈り求めつつ、み言葉と聖餐にあずかります。  日々、聖書のみ言葉を通し、自分に語られる主の御声を 聞き、それに応答し、祈り、主を信頼し、従い続けてまいりましょう。