わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
ヨハネ15章5節 (p.166)
序 論)ヨハネ15章は、「最後の晩餐」(弟子たちとの最後の食事)(13章1~30節)の後、イエス様が弟子たちになされた説教の一部が記されています。 イエス様は、父なる神様を農夫、ご自分をぶどうの木、 弟子たちをぶどうの木の枝にたとえられました(1、5)。 主のみ言葉から示されることは…
1. イエス様につながり、実を結ぶ
木から離れた枝には命がありません。イエス様は「わたしにつながっていなさい。」と命じられました(4)。「つながる」は、「とどまる」、「宿る」等の意味を持っている 言葉です。
新改訳では、「わたしにとどまりなさい」と訳されています。私たちがしっかりととどまるべき場所、それはまことのぶどうの木であるイエス様です。この勧めは、「わたしに対する信仰(信頼)を持ち続けなさい」という主イエスのご命令であり、呼びかけです。
枝が幹から流れてくる樹液によって伸び、成長するように、私たちはイエス様を通して、神様のご愛とみ言葉をいただいて生きる者です。
さらにイエス様は「その人は豊かに実を結ぶようになる。」(5)と言われました。
新約聖書で語れる「実」とは、「義の実」(ピリピ人への 手紙1章11節 p.308)、「福音宣教の働きの実」(コロサイ人1章5~10節 p.314)、「御霊の実」(ガラテヤ5章22~23節 p.299)等のことです。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテヤ5章22~23節)
イエス様につながっている者は、これらの実を豊かに結ぶようになるのです。
2.父なる神が栄光を受けられる
イエス様は「なんでも望むものを求めるがよい」と言われました(7)。ここで「求める」とは父なる神様に祈り求めることです。イエス様を信じている私たちの内には聖霊によってイエス様が生きておられます。そして私たちは、イエス様の御名を通して父なる神様に祈ることができるのです。
「…そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」(8)
イエス様を私の救い主と信じ、従う私たちは、イエス様の弟子です。そして、私たちがみ言葉によってイエス様にしっかりとつながり、多くの実を結ぶとき父なる神様が栄光を受けられます。
ぶどうの木の枝に実が結ばれることが、農夫の喜びであるように、私たちが実を結ぶことを神様が喜んでおられます。
誉れを受けられるのは、私たちではなく父なる神です。
そして、イエス様のお話の中心(テーマ)はぶどうの木のたとえ話から愛についての教えにだんだんと変わっていきます(9~10)。愛とは、ぶどうの枝(私たち)への栄養分です。私たちは、イエス様を通して、父なる神様からまことの愛を受け続けるのです。そして、神を愛し、隣人を愛する者へと変えられ、成長させられていくのです。
結 論)イエス様につながっているということは、イエス様と命がつながっているということです。ただイエス様のことを知識として知っているだけではありません。イエス様を信じて、罪からの救いの恵みにあずかり、永遠の命をいただいているということです。また、イエス様を通して神の子とされていることです。 イエス様は「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」(7) とも言われたように、主イエスの言葉が私たちの内にとどまっていることが大切なのです。そのみ言葉によって私たちはどのようなときも生かされ、キリストに似る者へと成長させられ、キリスト者としてふさわしく整えられていきます。
このようにイエス様につながっているなら、いつも栄養 (愛とみ言葉)をいただくことができます。主イエスの言葉、 聖書の言葉が、心に響いてきて、イエス様に喜ばれる歩みをしたいと願うようになります。また様々な試練を乗り越える力もみ言葉によって与えられます。
ぶどうの木にたくさんの枝が生えて長く伸び、たくさんの実を結ぶように、イエス様の願いは、私たち皆がイエス様につながり実を結ぶことです。
イエス様につながりましょう。そしてイエス様につながっている枝どうし、私たちは互いに愛し合い、さらに多くの実を結ばさせていただきましょう。