マルコによる福音書10章46~52節

「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」
マルコによる福音書10章47節(p.70)


 人は、本当に必要なものがなんであるのか、気がつかないで、むしろ、必要でないものを求めてしまう。さらに、本当に必要なものが分かっているのに、それを求めることができないでいる。しかし、自分にとって本当に必要なものはなにであるかを知り、それを切に求め続けた一人の男に起こった出来事が聖書に書かれている。

I. 妨げるものがあってもあわれみを求め続ける
 イエスがエリコを出立し、エルサレムへ向かわれるとき、多くの人がイエスについていった。ただ、行きたいのに行けない人もいた。その一人がバルテマイである。盲人であったからだ。彼はいつものように、その日も街道沿いに座って物乞いをしていた。エリコは冬でも暖かいところである。彼は「上着を着て」ではなく、「上着を敷いて、その上に座り」、物乞いをしていた。彼への施しはその上着の上に投げられていったのだろう。  
    そのとき、バルテマイはイエスと共にエルサレムへと向かう大群衆に出くわした。そうすると、一度は諦めた思いがよみがえってきた。彼は神に祈るように、神に向かって叫ぶように、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」(10:47)と声を張り上げた。「ダビデの子」とは、来るべき王の称号、メシアの称号である。つまり、来るべき王である方よ、自分に神のあわれみを注いでください、と繰り返し叫び続けたのだ。これを迷惑に思う多くの人々は黙らせようとした。しかし、人々が静めようと叱責すればするほどに、バルテマイは、更に声を上げた。
 私たちはどうだろうか。自分の必要に気がついているだろうか。その必要が満たされるためなら、どのような障がいが立ちはだかっていても、それを求め続けているだろうか。それとも、必要に気がついているのに、人々の目を気にしてバルテマイのようになれないでいるのだろうか。

II. 見えない者こそ見えている
 バルテマイの叫びはイエスに届いた。イエスは「彼を呼べ」(10:49)と命じられた。人々はバルテマイにそのことを伝えると、彼は即座に立ち上がり、上着を捨て、躍りあがって、イエスのところに行った(10:50)。彼の数少ない持ち物のひとつであり、彼の商売道具である上着でさえも、その日に受けた施しと共に彼は捨てて、イエスのところに行ったのだ。彼の目はまだ癒やされてはいない。しかし、イエスに呼ばれただけで、彼は喜んで出かけていった。
 イエスはバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」(10:51)と声をかけた。当然の問いかけかもしれないが、イエスはその人の人となりを知ろうとこの問いを投げかけたのだ。バルテマイは、自分に本当に必要なこと、つまり、「見えるようになることです」(10:51)と答えた。
 なぜ、彼は見えるようになりたかったのだろうか。目のいやしそのものが彼の一番の目的ではない。目が見えるようになったなら、イエスに従っていける、ダビデの子、来るべき王とともに、エルサレムに上れる、自分はイエスの弟子になれる、とわかっていたからこのように求めたのだ。
 バルテマイの姿勢はイエスの弟子たちと対照的である。ヤコブとヨハネの目は見えていた。しかし、彼らが願っていたことは、何よりも自分たちがより高い位に着くことであった。彼らにはイエスの十字架が見えなかったのだ。一方で、バルテマイの目は見えなかったが、イエスがどこに向かっているのかをバルテマイは知っていた。

III. 本物の弟子となる
 バルテマイに対して、イエスは速やかに「行け、あなたの信仰があなたを救った」(10:52)と答えた。人を救うことができるのは、その人自身でもなく、だれか他の人でもなく、神だけである(10:27)。神が不思議にもバルテマイに信仰を与え、見ることができなかった人を見えるようにした(10:52)。そして、彼は「イエスに従って行った」(10:52)。イエスと共に、エルサレムへの道、十字架への道、イエスの弟子への道を歩むようになった。

結論
 私たちは自分の必要がなんであるか分かっているのだろうか。それを満たしてくれる方に心から叫んでいるだろうか。その方なら必ず満たすことができる、という確信が与えられているだろうか。本当に必要なものがなにであるのかさえも、私たちは分かっていないのかも知れない。しかし、十字架に向かわれるイエスに出会うとき、本当に必要なものがなにかに気がつくことができる。そして、その最も必要なものをこの方は必ず与えてくださる、という確信が与えられる。必要なものが与えられた私たちは、本物のイエスの弟子へとなるのだ。