使徒行伝6章1~7節

そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。 そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、 わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう。」 
  使徒行伝6章2-4 節(p.189)

序 論)
使徒行伝6章にも、教会の成長によって起こってきた問題が二つ記されています。前半は教会の内側の問題でした。エルサレムの教会には、ヘブル語を話す伝統的な 人々と、当時の共通語であったギリシヤ語を話す革新的な 人々がいました。言葉の違いは様々な誤解を生み出し、ギリシヤ語を話す貧しいやもめたちへの食事の配給がとどこおりがちになっていました(1)。今回の箇所で示されることは…

1.御霊と知恵に満ちた人
  使徒たちは提案します(2-4)。教会の人たちによる選びと使徒による按手によって、七人の奉仕者が新たに立てられます。(5-7) 選ばれた7人は「御霊と知恵とに満ちた人」であり、みなギリシヤ風の名前であることから、弱い人々に配慮した構成になっていることがわかります。
  彼らには食事の世話、「日々の配給」(1)の働きです。  彼らは、日々の分配の働きをやめるのではなく、問題を解決して、そのことがより適切になされるように、新たな奉仕者が立てられたのです。つまり、今行われている良い働きをさらに拡大、成長させるために積極的な対処が成されたのです。そのことは、弟子の数が増えてきたという状況の変化に対応して教会が新しい体制を整えたということでもあります。それまでになかった新しい事態に直面して、教会は新たに変えられたのです。それこそが、聖霊のお働きによって生かされている教会の姿です。
「日々の配給」の「配給(分配)」という言葉と「食卓のこと」の「こと(世話)」(2)は、原文では「奉仕」を意味する同じ言葉が使われています。
  ここで選ばれた人たちの主な働きは分配の働きでした。分配されるものはもともとは教会の一人一人が献げたものです。つまり奉仕そのものは一人ひとりがしているのです。その一人ひとりの奉仕を適切にアレンジして(整えて)、必要なところに必要な奉仕が行き届くようにするのが「執事」(「奉仕」という言葉が語源)の務めです。
教会で成されるすべての奉仕が大切です。そしてそれぞれが自分の賜物や特性を生かして、主と教会に仕えることを、神様は願っておられ、それを喜んで下さるのです。

2.祈りとみ言葉の奉仕
        使徒たちが願っていたことは、神の言葉がないがしろにされないようにということであり、祈りとみ言葉の奉仕が  教会においてしっかりなされることでした。
  イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しの  恵みを告げるみ言葉こそ、聖霊によって教会に与えられている命です。
  神のみ言葉が語られ、それが真剣に聞かれるということにこそ、教会の命があるのです。
  「祈り」とは個人の祈りのみでなく、皆が集まって共に祈る共同の祈り、つまり礼拝をも含んでいます。礼拝においてみ言葉が語られるためのそれぞれの奉仕がしっかりと成されることによって、神の言葉がないがしろにされることから守られ、教会の命は保たれるのです。
  使徒たちの提案は、新しい奉仕の職務を立てようということでもありますが、同時にそれは、祈りとみ言葉の奉仕をしっかり確立することが目的でした。新しい奉仕の役目を作るのは、礼拝においてみ言葉がしっかり語られ、それが真剣に聞かれるためなのです。このことが、もめ事を解決するために教会がとった対処の中心でした。
  教会が起こった問題を通して新しい職務を立て、新しくされたことによって、神の言葉が広がり、救われる人た ち、弟子たちの数も非常に増えていきました(7)。大勢の祭司も信仰に入ったということは、ユダヤ人の宗教的権威、指導者である人々にすら、み言葉が広まり、信じる人達が起こされたことを示しています。教会の福音を伝える力がそれだけ強められたのです。

結 論)
     私たちにとっても「祈りとみ言葉(聖書)」が一番、大切です。私たちも聖霊によって祈り、聖霊の導きをいただきながら日々聖書のみ言葉を読みます。み言葉を黙想し、霊の糧をいただき、主の導きを求めつつ歩みましょう。
 各自に与えられている賜物をもって、神様と人とに仕える者となさせていただきましょう。