ヨハネによる福音書5章1~9節

イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。
その日は安息日であった。    ヨハネによる福音書5章8、9節 (p.143)


   エルサレムではユダヤ人の祭りがあった。その時イエスが向かわれたのはベテスダ(いつくしみの家の意)の池。その池には五つの廊があり、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、からだを横たえていた。だがそこは『いつくしみの家』と呼ばれるには程遠く、悲惨な争いの場所、失望が渦巻くようなところだった。イエスは人が集まる賑やかな祭りに背を向けるようにして、人に見捨てられ、人から忘れ去られたような場所を訪ねて下さった。
   そこに、38年もの間、病気に悩んでいる人があった。治る見込みのない病、迷信を信じてそこにいるほかなかった者。イエスはその人に近づき、その人に「なおりたいのか」と言われた。弟子を引き連れて仰々しく訪ねられたのではない。ただおひとり、この男のところに近づいて、その男にだけ目を留めて、その男にだけ声をかけられた。横になっている男の視線にまで身をかがめ、耳を傾けておられるイエスを想像する。
  イエスは助けることが出来るので、癒すことがお出来になるのでこの男に言われた。「なおりたいのか」。38年、その人の一生の大半を病気で過ごして、家族にも放り出されたかもしれない。もう高齢であったかもしれない。健康になれるなどという望みを失って生きていたかもしれない。その絶望の壁に主イエスは穴を開けて下さる。イエスは男に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。
   その日は安息日であった。神に見捨てられたのではないかと思えるような場所、主イエスはそこを訪ねられた。神のことばとしての働きをなさるために、安息日の主としてのふさわしいわざをなさるために。安息日というのは、あなた方の闇のわざの中に立ち続けることではなくて、神の恵みの光の中に立つことであると告げて下さっている。
   今日、主日礼拝の朝、安息日の主はここにおられる。神のことばとしての働きをなさるために。今、私どもの前に身をかがめ、顔をのぞき込み、耳を傾けるようにして、あなたに言われる、「なおりたいのか」。私どものあたりまえ、思い込み、望みを失って生きている生き方。主イエスはその絶望の壁に穴を開けて下さる。あなたは何を願い、何に失望しているのか。あなたは何を見て諦め、何を聞いて絶望しているのか。「わたしは今働いている」と告げて下さったみわざを、今ここにおける主のみわざとして、柔らかな心で受け入れたいと心から願う。