主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、 恥じて顔を赤くすることはな
い。この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出され
た。… 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
詩篇34篇5-6、8節 (p.775)
序 論)
この詩篇34篇が歌われた背景は表題に書かれています。サウル王に命を狙われたダビデは、生き延びるために頭がおかしくなったように装わざるえなくなりました。 (サムエル記上21章8-10節 p.416) そのような苦しい状況の中で、歌われた詩篇の言葉を通して示されることは…
1.主を仰ぎ見、寄り頼む
「常に」(1)という言葉があるように、「苦しみ」(6)、「悩み」(17)、「災い」(19)の時にもダビデは神様に祈り求め、賛美しました。自分がどのような状況の中にあっても彼は主の憐みを信じて、主を誇っていました。自分の名誉や外聞ではなく、主こそが一番大切なお方だったからです。
「あなたがた」は、直接的にはダビデの信仰の仲間のことです(5)。ダビデの危機を心配する彼らの、祈り、とりなしが聞かれたという確信がダビデにはありました。ダビデはガテを去った後、仲間と共に信仰の戦いを続けます。(サムエル記上22章以下 p.416)
7節は主の強力で、豊かな守りを示しています。
「味わい、見よ、主の恵み深さを。幸いな者、主に逃れる人は。」(8)(協会共同訳) ダビデは、自分の弱さと無力を知り、神様に信頼し、祈りました。そのときに主の大能の力を体験しました。「味わう」とは経験することです。
「あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。」 (ペテロ第一の手紙3章2節 p.367)
私たちにとっての主はイエス・キリストです。私たちは 主イエスを仰ぎ、寄り頼むことができるのです。
私たちも主を求め続けていきましょう。主を求める者は良き物に欠けることはないのです(10)。
2.主を畏れ、正しい道を歩む
後半では、主を恐れ(11)、悪口を言わず(13)、善を行うこと(14)、「やわらぎ」(14)(「平和」新改訳)を求めることと、詩人は、霊的、道徳的にも正しい道を歩むことを勧めます。
私たちは正しく生活していても祈りが聞かれないように思えるときは、不信仰な思いになったり、祈ることを止めてしまったりするかもしれません。でも、19節に「正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。」 とあります。サウル王に命を狙われても、ダビデは、神様に祈り、自分から攻撃したりせず、さばきを神様に委ねました。その後、神様は全能の御手をもってダビデを敵の手から救い出して下さったのです。(6-7)
私たちも主に従って正しく生きようとするとき、かえって悩みが多くなるかもしれません。でも神様は苦しい状況から必ず救い出して下さいます。時間は多少かかろうとも、このことを信じて歩むなら、神様は必ず祈りを聞かれ、いろいろな形で応えて下さいます。
20節の言葉は、イエス様が十字架にかかられたときの出来事を預言した言葉の一つとして引用されています。 (ヨハネによる福音書19章36節 p.175)
イエス様の十字架と復活による救いを信じる者は、もはや罪に定められることはないのです(22)。
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」 (ローマ人への手紙8章1節 p.242)
結 論)
「心の砕けた者」、「たましいの悔いくずおれた者」 とは、神様の前に自分の罪を認め、自分や神様以外のものに頼ることをやめ、神様にのみより頼み、赦しを求める人のことです。
かつてダビデも大きな罪を犯しましたが、神様の前に自分の罪を認め、告白したときにただちに赦されました。 (詩篇32篇5節 p.773)
「主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることは ない。」(5)(新共同訳)
神様は、世の光である御子イエス様を私たちのために与えて下さいました。私たちはイエス様を知り、信じて罪赦された者たちです。そして自分たちの内に命の光をいただき、光の子として生かされています。
どんなときも、主イエスを信じ、寄り頼み、従ってまいりましょう。