使徒行伝4章1~12節

「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」 
 使徒4章11-12節 (p.185)

序 論)
足が不自由だった男の人を癒し、立ち上がらせた後、 ペテロは宮の中で説教しました。そのとき、祭司たちや宮 守がしら(守衛長たち)が、ペテロとヨハネを捕らえました (1-3)。彼らがペテロとヨハネを捕らえた理由の一つは、大勢の群衆が集まって暴動になることを恐れたからでした。また復活を信じないサドカイ人たちがイエス様の復活を証しする二人を快く思わなかったことがもう一つの理由でした。(2) 翌日、ペテロが宗教議会で語ったことは…

1. 主イエスの名と権威によって
  宗教議会は神殿の権威者たちが開いたものでした。彼らは二人に「…いったい、なんの権威、また、だれによって、このことをしたのか。」(7)と尋問しました。彼らは真の権威を畏れる心からこう言ったのではありませんでした。彼らには、自分たちこそ最高の権威を背景にしているという思い上りがありました。 ペテロは聖霊に満たされて彼らに語ります(8)。かつてイエス様が弟子たちに聖霊が言葉を与えて下さると約束されました。   「あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。 言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである。」 (ルカによる福音書12章11-12節 p.108)   このとき、聖霊がペテロに語るべき言葉を与えて下さったのです。聖霊が与えられる言葉は、力にも知恵にも満ちていました。
  足の不自由な男の人を直したのは「ナザレ人イエス・キリストの御名」(10)でした。  ユダヤ人の宗教指導者たちは、イエス様を十字架につけ ました。しかし、父なる神様はイエス様を復活させられま した。(10)

2.このお方以外には救いはない
    ペテロは、イエス様の十字架と復活が、旧約聖書の詩篇  118篇22節(p,852)に預言されていたことの実現であることを語ります。(詩篇113篇~118篇は「ハレルヤ詩篇」と呼ばれている) こんな石は役に立たない、いらないと言って「捨てられた」(11)「石」は、イエス様を指しています。「家造り  ら」、ユダヤ人の指導者たちは、神の家を建てるという務め(神殿を「祈りの家」として整え、救い主の来臨に備えること。救い主(メシヤ)を信じ受け入れ、聞き従うこと)を与えられていましたが、神様が遣わされた主イエスという「礎石(隅のかしら石)となるべきであった石」を捨ててしまいました。 しかし、人が捨てた石(イエス様)を、神様は「隅のかしら石」とされ、復活させられ栄光の座に据(す)えられました。
  次にペテロは、救いがただイエス様のみから来ることを力強く宣言します(12)。   「この方以外には、だれによっても救いはありません。  天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は 人間に与えられていないからです。」(12 新改訳2017)

結 論)
     イエス様が十字架にかかられる前、イエス様のことを三度にわたって知らないと言って裏切ってしまったペテロは、もう自分の力では立ち上がることができなくなって いました。  そのペテロを再び立ち上がらせたのは、復活されたイエス様との出会いでした。主は彼の全ての罪を赦し、ご自分の弟子、その救いにあずかる者として、新たに立ち上がらせて下さったのです。  ペテロも、生まれつき足の不自由だった人もただイエス・キリストの御名によってのみ、新しく生き始めることができたのです。  ペテロの12節の確信と断言は彼のこの体験から来ています。  私たちの人生を本当に支え導くものは何でしょう。それ は私たち自身の力ではありません。ただイエス・キリストの御名によります。私たちは主の御名によって生かされ、支えられ、導かれています。
 父なる神様が主イエスの十字架と復活によって成された 救いを受け入れ、主との交わりを深めつつ、御名により頼んで歩んでまいりましょう。