使徒行伝3章11~26節

だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。 それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。  使徒3章19-20節 (p.184)

序 論)ペテロとヨハネは宮(エルサレムの神殿)で、生まれつき足の不自由な男性を立ち上がらせ、歩かせるという奇跡を行いました。それは、「イエス・キリストの名によって」なされたみわざでした。この出来事に驚いて集まって きた人々にペテロが語りかけます。彼の説教を通して示されることは…

1.神に立ち返れとの勧告   ユダヤ人たちが十字架にかけてしまった主イエスの御名  を信じる信仰が、この男の人をいやしたのだ、とペテロは宣言しました(16)。
  イエス様は「聖なる正しい方」(14)であり、「いのちの君」(15)であるお方です。そのお方を拒んでしまうという  大きな罪を彼らは犯してしまいました。
  救い主を受け入れなかったユダヤの人々にペテロは悔い改めを勧めます。(19)
 「悔い改めて本心に立ち返りなさい」(19)
 「悔い改めて神に立ち返りなさい。」(新改訳2017)
 「悔い改め」は、神様の方に心を向け、神様に立ち返る ことです。
  彼らがイエス様を拒んだのは「知らずに」(「無知のため」 新改訳)(17)
なしたことでした。
  イエス様はそのような何も分からず、ご自分のことを拒み、迫害し、十字架につけた者たちのために、とりなし祈って下さったのです。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」        (ルカによる福音書23章23節 p.132)
  イエス様の十字架のゆえに私たちの罪は赦されました。神様は、私たちが神様に立ち返り、イエス様の十字架による救いを信じ、イエス様を救い主として心に受け入れることを願っておられます。

2.「慰めの時」に主は再びおいでになる
  「慰めの時」(21)の「慰め」は「回復」や「休息」を意味する言葉です。「慰めの時」や「万物更新の時」(21)は、天に帰られ、今、神様の右の座におられるイエス様がもう一度この地上に来て下さるとき、再臨の時のことを意味しています。
  父なる神様は、イエス様をもう一度地上に「つかわしてくださる」(21)のです。
  次にペテロはイスラエルの民にとって権威の源泉であるモーセの言葉を引用して、イエス様に立ち返る道を示します。モーセのような「ひとりの預言者」(22)が来られることを彼は予告していました。(申命記18章15節 p.273)
イスラエルの人たちが預言者であり指導者であるモーセに聞き従ったように、彼らは救い主イエス様に聞き従うべきなのです。
  預言者サムエル初め、旧約時代の「預言者はみな」(24) イエス様によって到来する終わりの時、すなわち「この時」  (24)のことを預言していました。
  イスラエルの民だけでなく、「地上の諸民族」を祝福すると神様はアブラハムに約束されました(22)。 (創世記22章18節 p.26) そして、その約束はイエス様によって実現したのです。
 だから「預言者の子」(25)であり、「契約の子」(25)であるイスラエルの民こそ、まずイエス様の言葉を聞き、神様に立ち返るべきなのです。

結 論)神様は「その僕」(26)イエス様をイスラエルの人たちだけでなく私たちにも、つかわして下さいました。
 罪を悔い改め、イエス様を信じるとき、私たちは悪から 逃れ、神様に立ち返り、神様からの祝福をいただくことが できるのです。
 私たちは、イエス様によって、死から命へ、闇から光へと移されました。
イエス様は新しい命、永遠の命への「導き手」(15 新共同訳)です。  今は「天にとどまっておられ」(21)私たちのためにとりなし祈っておられるイエス様の再臨を待ち望みつつ、イエス様を信じ、命の道を歩み続けてまいりましょう。