使徒行伝3章1~10節

ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」        使徒3章6節 (p.184)

序 論)
  ある日、イエス様の弟子のペテロとヨハネは、午後 3時のお祈りをするために、宮(エルサレムの神殿)に上ろうとしていました。そこに、一人の男の人がかかえられてきました。彼は生まれつき足が不自由で、自分の力では歩くことができませんでした。神殿の中で礼拝することも許されていませんでした。(レビ記21章18-20節 p.167) ペテロたちが彼に対してかけた言葉は…

1.私たちを見なさい
  この人は40歳ぐらいの人でした(4章22節)。彼は宮 の「美しの門」と言われるところに座っていました。彼は物乞いとなり、神殿に礼拝に来る人々から施しを受けて生きていくしかなかったのです。生きるためにお金を もらうことが彼の目的になり、それ以外のことはあきらめ ていたり、絶望していたかもしれません。
  ペテロとヨハネを見て彼は施しを求めました。二人は彼をじっと見つめました(4)。彼らの力のこもった視線でした。ここでの「じっと見る」は「焦点を合わせる」というような意味があります。ただ漠然と見るのではなく、相手に焦点を合わせてしっかり見つめることです。 そしてペテロはこの人に向って今度は「わたしたちを見なさい」(4)と言いました。ペテロとヨハネは彼をじっと見、それと同じように、この人にも彼らのことを、しっかり見つめることを求めたのです。
  ペテロがここで言っている「わたしたち」は、イエス様を信じ、罪赦され、イエス様と共に生きている自分たちのことです。
  私たちもペテロたちと同じように主イエスによって罪赦され、生かされている者たちです。

2.イエス・キリストの名によって歩きなさい
  「何かもらえる」と期待した二人に「注目した」(5)(「じっと見つめ続けた」という意味の言葉が用いられている)彼に対して、ペテロは「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」(6)と言いました。
  それだけでなく、ペテロはこの男の人の右手を取って起こしてあげました。すると、彼の足とくるぶしがたちどころに強くなり、彼は踊り上がって立ち、歩き出したのです。  (7-8)。
  「すると彼は躍り上がってシャンと立った。それから歩き出した。」(8節 織田昭訳)
  「わたしにあるもの」は、イエス・キリストを信じる信仰、主イエスによっていただいた救いの恵み、聖霊によって私たちの内に生きておられるイエス様ご自身のことだと受け止めることができます。
  ここでの「名」は、イエス様が一緒にいて下さること、イエス様の権威、力、命そのものを表しています。   「イエス・キリストの名によって歩く」とは、イエス様を神の御子、私の救い主と信じ、従い、イエス様と共に歩き続けていくことです。聖書を読み、み言葉に触れ、主イエスの御名によって父なる神様に祈りながら歩き続けていくことです。   この人の足は癒されました。今までは、物乞いをして生活していた人が、自分の足で歩き「彼らと共に宮へ入っていった」(8)のです。彼がペテロたちと共に神殿の境内の中に入っていったのは、神様に感謝の祈りをささげるためでした。そして、「彼らと共に」は彼が使徒たちの教えに聞き従う者となったことを示しています。 彼はこの後、教会に連なる信仰者の一人になったことでしょう。(4章22節に年齢が記されていることがそれを暗示している) 自分の力で働いて生活することもできたことでしょう。

結 論)
  この人の足は癒されました。宮で神を礼拝し、祈る者へと変えられました。 癒された後、彼はもとの生活へと戻っていったのではなく、自分の心身の命が新しくされ、新たな生涯の歩み、主イエスと共に神様への祈りと賛美をささげつつ歩む生活が 開かれました。
 私たちも、イエス様の御名によって救われ、変えられた 者たちです。主イエスの御名、それは私たちに生きる力を与えてくれます。さらに主イエスからの希望と愛を心に与えてくれます。イエス様と共に歩き続けてまいりましょう。