ヨシュア記1章1~9節

「強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。」   ヨシュア記1章9節 (p.301)

序 論)
  偉大な指導者モーセが世を去り、イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、喪に服し、泣き続けました。モーセは百二十歳で地上の使命を終えたのです。モーセはヨシュアを後継者に選んでいました。ヨシュアとイスラエルの民は約束の地を目指して、第一歩を踏み出そうとしています。

1.民と共に立つヨシュア
  イエスを失った弟子たちが不安な気持ちであったように、ヨシュアとイスラエルの人々は茫然自失とし、約束の地を目指して進む勇気も力も湧いてこない有り様でした。このような彼らをご覧になった主は、ヨシュアに、民と共に立って、ヨルダン川を渡り、約束の地カナンへ行くようにお命じになりました。約束の地にたどり着くためには、ヨルダン川を渡らなければならないのです。ヨルダン川はこの季節、雪解けの水があふれて、激流が逆巻き、死の川として恐れられていました。「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちた人であった。」(申命記34:9)とありますように、ヨシュアはここで、死に勝利される主の十字架を仰ぎ、民と共に立ち上がります。私たちも聖霊に満たされる時、「力と愛と慎みとの霊」(Ⅱテモテ1:7)によって、臆することなく、前進することが出来るのです。

2.強く、また雄々しくあれ
   「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」(5節)と、主はヨシュアに言葉をおかけになりました。主が共にいて下さる時、私たちは強く雄々しくなることが出来るのです。異邦人伝道に取り組んだパウロもローマにおける試練の渦中から、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)と手紙を書いています。
 あなたが辛いとき、悲しいとき、イエスはあなたを背負っ て下さるのです。そして、新しい力をあなたに与えて下さい ます。よみがえられたイエスは弟子たちに「世の終わりまで、 いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束 されました。聖霊の働きによって、イエス・キリストは信じ る者の心の内に住み込んで下さるのです。「人生は出会いで 決まる」とも言われますが、イエスに出会うことによって、 私たちは新しい人生へと踏み出すことができるのです。 カナンの地には屈強な異民族が待ち受けています。「ヘテ びと、ギルガシびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力ある七つの民」(申命記7:19)と言われる勢力です。イエスは「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊を狼の中に送るようなものである」(マタイ10:16)と十二弟子に語られましたが、ヨシュアとイスラエルの民は狼に食い殺されそうになっている羊のような状態と言っても過言ではありません。イスラエルの民は思わず尻込みをしてしまいます。また、ヨシュアは既に八十歳を越えています、果たして若い世代が自分に従ってくれるだろうか、食糧はどうなるのだろうか、と不安を感じていたことでしょう。
 しかし、彼らが主のみ言葉に立ち、行動するならば、「あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」(8節)と、主は約束されているのです。自分の力で道を開こうと悪戦苦闘するのではなく、主が開いて下さっている繁栄と勝利の道を進むことが大切です。主はあなたを守って下さいます。

(結論) 
  私たちは現実の困難に直面したり、この世の敵を前にした時に、怖気づいてしまう弱い者です。イエスは、そのような私たちに、「わたしについてきなさい」(マルコ1:17)と語っておられます。イエスはガリラヤの漁師であったペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを弟子として召し抱えられました。彼らは腕っぷしの強い漁師たちで、宗教的な事柄については、無頓着な人々です。神の愛を伝えると言っても、何を話せばよいのか、頭に浮かびません。しかし、イエスは彼らに、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と語られ、彼らを福音を伝える器としてお選びになったのです。21世紀の今日も、「わたしについてきなさい」と、イエスの声が響いています。イエスの声を聞き、み言葉を掲げて、イエスについて行けば、新しい人生、勝利の道が開かれるのです。
 私たち日本人は今、ヨルダン川を渡ろうとしています。幕末の開国以来初めて、日本は人口減少という時代に突入し、超高齢者社会を迎えようとしているのです。これは未知の世界です。主は私たちと共に歩んで下さいます。恐れず、臆せず、強く雄々しく、21世紀を生き抜いてまいりましょう。