「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。」 使徒2章33節 (p.183)
序 論)
過越の祭りから50日目(ペンテコステ)の収穫のお祝いの日、一緒に集まっていた弟子たちは、聖霊に満たされました(2章4節)。その後、ペテロは、集まっていた人たちにイエス様のことを証しします。ペテロの説教を通して示されることは…
1.神のご計画と予知による主の十字架と復活
ナザレ人イエスこそ、神様がイスラエルの民に遣わして下さった救い主であり、神様はイエス様のなさった様々な奇跡や不思議なわざによって、そのことをはっきり示されました。(22)
しかし、神様の民であるイスラエルの人々は、イエス様を受け入れず拒みました。そして、「不法の人々」(23)(「律法を知らない者たち」(新共同訳))つまり異邦人である ローマの権力者たち(総督ピラトや兵卒たち)に引き渡して、十字架につけてしまいました(23)。
神の民イスラエルは、御子イエス様を十字架につけることによって、神様に対して大きな罪を犯しました。ペテロは、あなたがたがこのようなことをしたのだ、と言ってイスラエルの人々の罪を指摘しました。しかし、それだけではなく、ペテロは主イエスの復活を語ります(24)。
イエス様の十字架の死が神様のご計画による、罪の赦しのための救いの出来事であったことが、神様が主イエスを復活させられることによってはっきり示されました。
主の復活もまたそのご計画の中で成されたのです。
ペテロは、そのことを詩篇16篇8節(p.759)以下を引用して示します。(25-28)
この詩篇を歌ったダビデはすでに死んでその墓があります(29)(Ⅰ列王記2章10節 p.476)。だからこの「わたし」は、ダビデ自身のことではなく、ダビデの子孫としてお生まれになった救い主イエス・キリストのことを預言しているのだと語ります。(30-31)(30節は詩篇132篇11-12節をもとにした引用p.867)
神様は死んで黄泉に降られたイエス様を復活させられました(31)(詩篇16篇10節)。
2.主イエスの昇天と聖霊の注ぎ
復活されたイエス様は、天に昇られました(33)(使徒1章9節) このこともまた、
神様のご計画の中にあったのです。ペテロは、詩篇110篇1節を引用します。(34-35)。ダビデが「わが主」と呼んでいる救い主が、神様のみ心によって、神様の右の座に着くことが歌われています。この「右」は、「最も近いところ」を意味しています。
今、イエス様は全能の父なる神の右に座しておられるのです。そして、イエス様は父なる神様から聖霊を受けて、それを弟子たちに注いで下さいました。(33) それがこのペンテコステの日の出来事でした。
ペテロの説教の中心はイエス・キリストの十字架と復活です。ペテロは「あなたがたが十字架につけたこのイエス」(36)「あなたがた」とは直接には、このとき説教を聴いていたユダヤ人のことです。しかし、ペテロはこのとき、「この私もイエス様を十字架につけてしまったのだ」、「この私のためにもイエス様は十字架にかかって下さったのだ」と思い、祈りながらこの説教を語っていたのではないでしょうか。そして、ユダヤ人だけでなく、異邦人、そしてすべての人たちがイエス様を十字架につけたのです。
結 論)
ペンテコステ以降、「あなたがたが…」(36)という言葉を、自分のこととして受け止めた人たちは、「イエス様はこの私のために十字架におかかりになった」、「私がキリストを十字架にかけたのだ」と告白し、自分たちの罪を悔い改めてきました。
そして、神様はそのイエス様を復活させて下さったのです。これが今まで誰も実現できなかったイエス・キリストによる新しい救い、神様が成された確かな救いです。
今もペンテコステの日に弟子たちに下さった聖霊が私たちにも注がれ、私たちにも信仰を与えて下さいます。
私の罪のために十字架にかかられ、私を永遠の命に生かすために復活して下さったイエス様を信じ、従い、「いのちの道」(28)(詩篇16章11節 p.759)を共に歩んでまいりましょう。