使徒行伝2章14~21節

「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。…」        使徒2章17-18節 (p.182)

序 論)
  ペンテコステ(五旬節)の日、聖霊が120名ほどの弟子たちの上にとどまったとき、彼らは今まで学んだことのない言葉で話し出しました。(4) 色々な国々からエルサレムに来ていた敬虔なユダヤ教徒たちは、自分の国の言葉で「神の大きな働き」(11)が述べられるのを聞きます。その後、11人の弟子と共に立ち上がったペテロは、人々に語りかけます。説教の前半で示されることは…

1.すべての人に聖霊が注がれる
 「朝の9時」(15)は、ユダヤ人にとって朝の祈りのときでした。ペテロは、これらの不思議な出来事がどうして起こったのかをヨエル書を引用して語ります。17-21節はヨエル書2章28-32節(p.1264)の引用です。「終りの時」(17)は、直訳すると「終りの日々」となります。一日だけでなく、続いていく日々のことです。イエス様の成された救いのみわざによって、それまでと全く違う新しい時代、終わりの日々がやってきました。今の私たちも終わりの日々の中に生かされているのです。ペテロの語っているのは、主イエスによる最終的な救い、完全な救いです。救いに関して、新たに加えられるものはないのです。  そして、神様の「わたしの霊をすべての人に注ごう」(17)との約束が、ペンテコステの時に実現しました。聖霊降臨がまさに終りの日の到来の始まりを意味しています。聖霊が注がれることにより、すべての人が神の恵みの言葉を自由に語る新しい時代が始まりました。(17-18)イエス様を信じる者には、聖霊によって、神の霊が心に注がれ続けるのです。
「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ人への手紙5章5節 p.238)

2.主の名を呼び求める者は、みな救われる
19~20節は、今後、起こる終末的現象を預言していると解釈されています。また、「日はやみに」(「太陽はやみとなり」新改訳)(20)は、イエス様が十字架にかかられたとき、太陽が暗くなったことを示していると受け止めることもできます。(そのとき、過越の満月が血のように赤く映った、という言い伝えがある。) (マタイによる福音書27章45節 p.48)
「主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」(21)は、ヨエル書2章32節(p.1264)の引用ですが、同じ箇所を使徒パウロも引用しています。(ローマ人への手紙10章13節 p.246) ここでの「主の名」は、イエス・キリストの御名のことです。だれでもイエス様を、神の御子、救い主と信じ、告白する者は、罪から救われるのです。
ペテロは、続いてイエス様の十字架の死と復活を語ります。(22-24)
彼は、イスラエルの人々に向かって、「あなたがたが、イエス様を十字架につけたのだ」と言います(23)。しかし、神様はイエス様の十字架によって、すべての人の罪を赦し、イエス様を復活させられました。イスラエルの人たち(私たち全人類の代表)がイエス様を十字架にかけてしまいましたが、父なる神様が復活させて下さったのです。
神様がイエス・キリストの十字架と復活によってなされた私たちの救い、これは神様が成され、保証して下さっていますから、これほど確かな救いはないのです。

結 論)
  聖霊降臨の日以降今も、「わたしの霊」(聖霊)は、すべての人に注がれ続けています。聖霊は、私たちがイエス様と出会い、救われるように働きかけておられます。 聖霊の力とお働きによって、私たちはイエス様とお出会いし、信じ救われる恵みにあずかりました。イエス様を知った今が救いの日であり、恵みの時なのです。(コリント人への第二の手紙6章2節 p.282)これからも聖霊に導かれ、主イエスと共に進んでまいりましょう。