ルカによる福音書24章13~32節

一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか。」       ルカ24章30-32節 (p.134)

序 論)
  二人の弟子(クレオパともう一人の弟子)は、イエス様が復活されたという知らせを聞いても、信じることができませんでした。彼らは戸惑ったまま、故郷の村エマオへ 帰ろうとしていました。その途中、イエス様が彼らになされ、語られたことは…

1.近づかれ、共に歩かれた
  失意の中にある彼らに、イエス様の方から近づき、一緒に歩いて行かれました(16)。しかし、「彼らの目がさえぎられていて」、この人がイエス様だいうことがわかりませんでした。(17)
イエス様が問いかけられると、二人は、「ナザレのイエス」について知るところと十字架の死、聞いても信じられない復活の知らせを伝えます(19-23)。
  イエス様は二人に正面から向き合って責めたりなさらず、まず彼らの不安やためらいの言葉に耳を傾けて下さいました。
  イエス様が、彼らのかたわらに近づき、共に歩かれたように、復活し今も生きておられるイエス様は、私たちのところにも来て下さり、共に歩いて下さっているのです。そ  して、私たちの心の中の思いや叫びも忍耐強く、聞き取って下さっています。
  私たちも心をイエス様に向け、心の思いをイエス様に話しましょう。

2.聖書を説き明かされた
  続いてイエス様は聖書(旧約)を説き明かし、彼らに語られました。(「モーセ」は旧約聖書の「モーセ五書」(律法)、 「すべての預言者」は旧約聖書の「預言書」、「聖書全体」  は「旧約聖書全体」のこと、旧約聖書は律法、預言書、諸  書の三つに分類される)(27)
  二人の弟子たちは、イエス様のお話しにとても心が動かされたのでしょう。もっと聞きたいと思って、先に進もうとされるイエス様に「…一緒にお泊まり下さい。…」(29)  と申し出ました。主はそれを受け入れ、彼らの家に入られました。
 食事の時間になったとき席に着き、イエス様はパンを取り、「祝福して」(「賛美の祈りを唱え」新共同訳)、パンを裂き弟子たちに渡されました(30)。
 そのとき、弟子たちの霊の目が開かれました。目の前に おられる方が、十字架にかかり復活されたイエス様だと分かったのです。その瞬間、イエス様の御姿は見えなくなりました。
 彼らは、イエス様が聖書を説き明かして下さったとき、 「お互の心が内に燃えたではないか。」(32)と振り返ります。それは、ご自身が、苦難を通って栄光に入るメシヤ(救い主)の通るべき道を示し、聖書全体からこれを説き明かされたときでした。(26-27)
 復活を知らせる婦人たちの報告はありましたが、弟子たちは信じることができませんでした。 (ルカ24章10-11節 p.133) しかし、イエス様ご自身が聖書を説き明かされ、神様の言葉によって、彼らの心に光が当てられ、燃やされました。
 イエス様が復活されたことを信じたとき、弟子たちの内に復活の命があふれました。重い足取りでエマオへ下ってきた二人は、この後、向きを変え、エルサレムへの上り 坂を急いで引き返しました。そして、人目も恐れずに、仲間の弟子たちに、よみがえられたイエス様に出会ったことを知らせました。(33-35節)

結 論)
  今も、イエス様は聖霊のお働きと聖書の言葉を通して語りかけておられます。聖書の言葉によって、十字架と復活のイエス様と出会うとき、私たちの心に大きな喜びが与えられます。
 イエス様を信じ、心に受け入れるとき、私たちは今までとは全く変えられた、新しい人生を歩み始めることができます。 イエス様が私たちと一緒に歩き続けて下さいますから、日常の生活の中でのいろいろな恐れや不安や様々な重荷もイエス様に告げ、十字架のもとにそれらを下ろすことができるのです。
 イースターのとき、主が成して下さった救いの恵みにあ ずかっていることの幸いを覚え、やがての日、栄光の御国に移されることを望みつつ、イエス様と共に歩み続けましょう。