そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」 ルカ23章42-43節 (p.132)
序 論)
イエス様が十字架につけられたとき、いっしょに十字架につけられた人が二人いました(33)。彼らは「犯罪人(強盗)」でした。初めは二人とも他の人たちと一緒になってイエス様をののしっていました(マタイ福音書27章44節 p.48)。彼らの様子と、イエス様が二人のうちの一人にかけられた言葉は…
1.二人の犯罪人
イエス様は、十字架の上で敵を愛し、赦してこう祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(34)
一人の犯罪人は、イエス様に悪口を言い続けました(39)。
彼は、苦しみと絶望、怒りや不満をイエス様にぶつけました。彼は、役人や宗教指導者たちの側に立ってイエス様を責めました。彼の姿は、神様を知らなかったり、無視したり、不平、不満ばかりで自分の罪に気づかなかったかつての私たちの姿と重なります。
ところが、もう一人の犯罪人の心が変わり始めたのです。
彼は自分には罪があることがわかり、さらに中央の十字架にかかっているナザレのイエスというお方は、普通の人とは違うということを感じ始めていました。
イエス様に悪口を言い続ける犯罪人に対して、もう一人の犯罪人は彼をたしなめて言いました。「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか」(40)
彼は、同じ苦しみの中で、その苦しみを先ほどの人とは全く違った仕方で受け止めています。「お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。」(41) 彼は、この苦しみは自分たちの罪の当然の報いだと言っています。
怒りと憎しみで心がいっぱいだった彼は、今、十字架の上で、神を恐れる思いを抱くようになったのです。それは、彼らの真ん中で十字架につけられているイエス様の姿に衝撃を受けたからでした。そのことは、「しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない。」(41)の言葉に表われています。
彼が今、見つめているのは、神の裁き受けておられるイエス様です。神の罰としての十字架の刑を、このイエスという方が、我々と同じように受けておられる、そのことに彼を愕然とし神を畏れ、敬う思いが生まれました。
彼は、自分の罪を認め、罪を告白し、イエス様が罪なき方、神の御子であることを認めました。
2.約束の言葉
自分と同じ十字架に何の罪もないお方がついておられる、 自分が罪の報いとして受けなければならない苦しみと死を神の御子が共に引き受けておられたのです。
その事実に触れた彼は、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」(42)と願うことができました。
彼は一般のユダヤ人、もう一人の犯罪人や弟子たちのように地上のメシア王国を願ったりしませんでした。ただイエス様の再臨の時に自分のことを覚えていて下さることを願いました。
彼の言葉は、不十分な信仰の表明だったかもしれません。でも、このお方、イエス様は、メシア(救い主、キリスト)として御国を支配なさるお方だという彼の信仰が現われています。そして「思い出してください」という願いには彼のへりくだった気持ちがこめられています。
彼の言葉を聞かれたイエス様は、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」(43)と告げられました。
パラダイスは、キリストによって回復される「エデンの園(楽園)」のことで「パラダイスにいる」という約束は、罪が赦され、神様のもとでの祝福が回復されることを意味 しています。そして、約束の言葉通りイエス様が彼と一緒にいて下さるのです。
結 論)
この犯罪人は、自分の罪を示され、神様に対して 畏敬の念が生まれました。彼のように私たちも神様を敬う 心が与えられたときに、自分の内に赦されなければならな い罪があることに気がつき始めます。
そのありのままの自分を神様の御前に出て言い表すとき、 イエス様はこの人をお救いになったように、「きょう」(今、このとき)私たちを救って下さるのです。
イエス様は、神様に立ち返る者を、いつでも、どこでで も救われるお方です。
イエス様を信じ、十字架による救いにあずかりましょう。 地上で生きるときも、地上の生涯が終わり御国に移される時も永遠の命に生かされ、いつも私たちと一緒にいて下さるイエス様と共に歩み続けてまいりましょう。