そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
ルカ23章34節 (p.131)
序 論)
ルカ23章は、イエス様の裁判と十字架刑と葬りに ついて記しています。不当な裁判の結果、イエス様の死刑が確定しました。イエス様は、刑を受けるために、着かれたのは「されこうべ」(ヘブル語では「ゴルゴタ」)と呼ばれている場所(33)でした。十字架の上でのイエス様は…
1.赦しを願われ、とりなしの祈りをされた
ローマの法律で定められていた一番、重い罰が十字架刑 でした。では、罪なきお方であるイエス様がなぜそんな罰を受けなければならなかったのでしょう。 ローマ総督ピラトはイエス様を取り調べましたが、罪は 認められませんでした。そこで、ピラトは「わたしはこの人になんの罪もみとめない」と、三度もユダヤ人たちに訴えました。(23章4節、14節、22節) しかし、彼らは断固としてピラトの言葉を受け入れませんでした。 そして、罪のないお方であるイエス様が、他の二人の犯罪人といっしょに十字架につけられたのです。(33)
役人たちも「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい。」(35)とあざ笑い、兵士たちもイエス様を嘲りました。十字架のすぐそばでイエス様の着物をくじ引きで分け合っていた人たちがいました。(34、36-37) 十字架にかかられるという最もひどい苦痛と辱めを受けられる中でもイエス様は、ご自分の力をご自分のために使うことはなさいませんでした。
そして、自分を助けて下さいというお祈りではなく「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(34)と祈られました。
このような恐るべき状況の中で、イエス様はご自分を迫害する者のために祈られたのです。
それだけではありません。イエス様に罪がないことを知 りながら、イエス様を十字架につけることを許したピラトや、イエス様を十字架につけるためにありもしない罪をきせた宗教指導者たち。そして、イエス様が捕まえられるとき逃げ出した弟子たちやイエス様のことを三度も知らないと言ったペテロたち。みんな神様の御思いが何かを考えず、イエス様のことも考えず、自分のことだけしか考えていませんでした。
イエス様は、このような人たちのためにも祈られました。 それは、彼らへのあわれみと父なる神様へのとりなしに満ちた祈りでした。
イエス様はすべての人の身代わりとして、最後まで十字架の苦しみを受けられたのです。
2.今も天においてとりなしておられる
私たちも、この場面に出てくる人たちのように、かつては神様の御心も、イエス様がどのようなお方であるかもわからず自分中心に罪の中に生きていた者でした。自分がどこから来て、どこに行くのかも分かっていないものでした。
イエス様は、そんな私たちの罪を赦し、罪がもたらす滅 びから救うために、私たちが受けるべき罰の身代わりとして十字架にかかって下さいました。
私たちがまだ、イエス様のことを知らず、罪が何かも知らないで生きていたときにすでに、私たちを赦すために十字架による救いを成し遂げて下さっていたのです。
総督ピラトは、「これはユダヤ人の王」と書いた札を、 イエス様の上に掲げさせました(38)。これは、彼のユダヤの宗教指導者たちとイエス様ご自身に対する嘲笑の意味が込められていました。しかし、この言葉は、イエス様がユダヤ人の真の王、御国の真の王であることを示す言葉となりました。
十字架にかかられたイエス様は三日後に復活され、40日間、弟子たちに御姿を顕された後、天に昇られ、父なる神様の右の座に着かれました。 今も、イエス様は、天において、私たち一人ひとりの名を挙げて神様にとりなし祈って下さっています。
結 論)
イエス様の十字架が私の罪のためであることを受 け止め、イエス様を信じ、主に喜ばれる生活をしていきま しょう。
イエス様が、今も、私のためにとりなし祈って下さって いることを覚えて、私たちも周りの人たちのため、日本の ため、世界中の人たちのため、とりなしの祈りを成してまいりましょう。