「しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互いに足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。」
ヨハネ13章14-15節 (p.163)
序 論)
主イエスは、ご自分のこの世における最後の時を察して、弟子たちにどうしても伝えておかなければならない大切なことを語るだけでなく、見せ、体験させた。弟子たちが同じようにするために手本を示された。どのようにされたのか
本 論) 1.愛を具体的に示された
主に選ばれた弟子たちは、主イエスがこの地上にこられた目的を聞かされながらも、イスラエルの王となってローマの支配から国を救うメシアであってほしいと願い、その時、いかに自分たちが良い地位につくかをめぐって論争して、だれが一番偉いかということに夢中になっていた。言い争っているその場の空気は、大変重苦しい中で、主は夕食の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、長い手拭いを腰にまとい、たらいに水を汲まれ、奴隷の姿をとられ、弟子たちの足を洗うことで、ご自分の愛を「残るところなく示された」(新改訳)主は「最後まで愛し通された」(口語訳)「この上なく愛し抜かれた」のである。
2. あなたの足を出しなさい
主は一番近くにいた、ヨハネに「あなたの足を出しなさい」と言われた。ユダヤ人にとって足は体の中で一番卑しく軽んじられている部分であり、人の足に触れるのは召使だけであった。主はヨハネに手を差し出した。主の手は盲人の目を開け、歩けない人を立たせ、思い皮膚病の人に触れてきよめ、嵐を静めた神のみ手が、弟子たちの足に触れ、洗ったのである。ユダの裏切りを知っておりながら、ユダの前に主はひざまずいて、「あなたの足を出しなさい」と命じられた。しかし、ユダには主の愛は届かなかった。 ペテロは主に足を洗ってもらうことを拒んだ。(7,8)主は「足を洗わなければあなたはわたしとなんの係わりもなくなる」といわれた。ペテロは「今まで3年半、漁師の仕事も家族もおいて従ってきたのに、足を洗わなければなんの係わりもなくなるなんて、そんなばかな」と思い、今度は「足だけでなく手も頭も洗ってください」と懇願した。主は罪にまみれた心をきよめることができるただ一人の方である。汚れた足で福音を携えてでていくことはできない。神の御子だけが汚れた人生をきよめることができるので、ペテロも私たちも洗ってもらう必要がある。 主イエスは洗足を通して、弟子たちにカルバリで起こることの洞察を与えられた。(ピリピ2:5~8)イエスは天の栄光の座を捨てて衣を脱ぎ、人となられ、手拭いをとって奴隷となられた。そして十字架にまで従われ、脇腹からも手足からも血が流され、最後に槍で脇腹が突き刺され、血と水が出たのである。この血とこの水こそ、私たちの足を洗うのに尊い水と血なのである。主はこの場の雰囲気を変えられた。弟子たちの心を溶かし、高慢を恥じ、お互いを同等の者と見て、本当の交わりが始まったのである。一人残らず洗ってもらう必要がある。
結 論)
今日、主は私たちの前にひざまずいて「あなたの足を出しなさい」と手を差し伸べておられる。日々生活している中で、あちこち歩き回り、様々なことをしているうちに汚れる。一生懸命頑張っていると思っている時こそ汚れている。家庭内で愛せない、赦せない思いがあり、和やかな雰囲気がないなら、すぐ足を出すこと。教会の中での交わりにおいて、何か不真実や偽善的なことがあったり、関係がぎくしゃくするような時は、すぐ主の前に足を出すこと。
自分たちこそきよめられている団体であり、正当な信仰を受け継いでいると、どこかで自分たちの義をたて、立場の違う人を見下しているとするならば、すぐに足を出し、主イエスの流された十字架の血によって、きよめていただかなければならない。今こそ、クリスチャン同士が赦し合い、受け入れ、尊重しあう本当の交わりを築かせていただかなければならない。
主は「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」といわれ、「互いに足を洗い合わなければならない」と命じられたのである。
新会堂が建て上げられ、新しい出発をするこの時、互いに足を洗い合って、福音を携えて出て行くこと、「互いに愛し合いなさい」(34)とも命じられている。地域にあって具体的に愛をあらわして行く献身者の群れとならせていただこう。