そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」
ルカ22章41-42節 (p.129)
序 論)
「最後の晩餐」が行われ、聖餐が定められた場所で ある「二階の広間」(ルカ22章12節)で、イエス様は弟子たちに問われ、語られます(35-38)。その後、オリブ山(39)に弟子たちと一緒に向かわれます。弟子たちに語られたことと、オリブ山(ゲツセマネの園)での祈りから示されることは…
本 論) 1.罪なき方が罪人となられた
かつてイエス様は弟子たちを宣教のために各地に遣わされました(ルカ9章1-6節p.101、10章1-20節 p.104)。そのときも、弟子たちは「こまったこと」は 「何もありませんでした」(35)と答えます。彼らに必要なものは神様が与え、彼らを守って下さいました。
「しかし、今は…」とイエス様は言われ、弟子たちに 「財布、袋、剣」を準備するように告げられます(36)。
イエス様が十字架にかかられるこの時とその後、弟子たちもこの世から憎まれ、迫害されます。迫害と旅に出るその時に備えるようにと主イエスは語られました。
なぜ旅に「剣」が必要で「二振りのつるぎ」に対して、「それでよい」(38)と言われたのでしょう。いろいろな解釈があります。(「それで十分」(新改訳)、That is enough. (英訳) 参照)
ここでのイエス様と弟子たちのやり取りを通しても、弟子たちの理解と、イエス様のみ思いがかけ離れていたことを示されます。
弟子たちは、迫って来る危機に対して「剣」(武力)で戦おうとしていました。(この後に弟子の一人は実際に剣をふるう。 22章49-51節)
しかし、イエス様は神様の御計画に従ってただひとり十字架に向かわれました。37節で引用されたのは、 イザヤ書53章12節(p.1022)の言葉でした。
ご自身は何の罪もない神のひとり子であるイエス様が、私たち罪人のところに来て下さいました。そして、イザヤのこの預言(イザヤ書53章)の通り、イエス様は私たちの罪を全て背負い、その罰をご自分の身に引き受けて下さり、自ら罪人の一人となって死なれました。「…書いてあるこのことはわたしに必ず実現するのです」 (37)(新改訳)
私たちの罪からの救いは、このイエス様の身代わりの死、十字架によってこそ実現し、与えられたのです。
2. 父なる神の御心に従われた
イエス様が弟子たちと向かわれた「いつもの場所」(40)は、オリブ山の麓(ふもと)にある「ゲツセマネの園」でした(マタイ福音書26章36節 p.45 マルコ福音書14章32節 p.77) イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい。」(40)と言われ、ご自身は、少し離れたところで、ひざまずき、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」(42)と祈られました。ここでの「杯」は、十字架で受けられる苦しみ のことです。 イエス様は十字架での死の間際に、「わが神、わが神、 どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました(マルコ福音書15章34節 p.81)
イエス様が受けようとしておられる杯は、父なる神様との断絶を意味していました。イエス様の死は、それまではどんなときも共におられた神様から見捨てられることだったのです。それは「罪人の中の罪人」としての死でした。
イエス様は、死の本当の怖さを知っておられたがゆえに「…わたしから取りのけてください」と祈られました。
イエス様の御顔から「汗が血のしたたりのように地に落ちた」(44)と聖書が告げるほどに、苦しみもだえて祈られる中で、イエス様は父なる神の御心に委ね、従う決意をされ、祈りの場から立ち上がられました(45)。 「立ち上がる」という言葉は、「復活する」ということも意味する言葉です。祈りの戦いを戦い抜かれ、勝利されたイエス様は、十字架にかかられて死なれ、そして復活されたのです。
結 論)
イエス様が私たちの身代わりとして神様から見捨てられ、罪人として死んで下さり、復活されたので、イエス様を神の御子、救い主と信じる私たちは罪赦された者です。そしてもう神様から見捨てられることはないのです。
イエス様はゲツセマネの園で、最後に弟子たちに「なぜ 眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」(46)と言われました。 私たちも神様に祈ることを忘れやすいものです。でも、このような私たちのために、イエス様も、内なる聖霊も祈って下さっています。祈ることを示された時、祈りに導かれた時は、イエス様と共に、父なる神に祈りましょう。聖霊の助けをいただいて父なる神様に祈り続けましょう。