またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしの からだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。 」食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。」
ルカ22章19-20節 (p.128)
序 論)
日没後、用意された二階の広間で、イエス様は弟子たちと「最後の晩餐」(過越の食事)を共にされました。そこでご自分の「苦しみ」(受難と死)(15)の意義を教えるため、パンと杯を弟子たちに分けられます。主イエスの言動を通して示されることは…
本 論) 1.過越(すぎこし)が成就する時まで
イエス様は、弟子たちと過越の食事をすることを「切に望んで」おられました(15)。原文では「熱望する」という言葉を二回繰り返しておられます。「望みに望みたり」 (文語訳)。 この過越の食事は、主イエスの強い願いによって行われました。
「神の国で過越が成就する時まで」(16)は「今から後、神の国が来るまで」(18)と言い換えられています。
旧約での過越は、エジプトの奴隷状態にあった民が、主なる神様の大いなるみわざによって、解放され救われたことです。(出エジプト記12章、13章 p.89-93)
ここでイエス様が言われる、「過越の成就」は、神の国の到来のとき、救いの完成のことです。それは、イエス様がもう一度地上に、来て下さるとき、再臨のときに実現するのです。そのことを見越してイエス様はご自分の再臨のことを語られました。
そして、今、このとき、神様の御計画である救いを成すためにイエス様は、この後、苦しみを受けようとしておられました。
かつては、過越の小羊が犠牲となって、イスラエルの民の解放、救いが実現しました。今、全ての人が罪の支配から解放され、罪赦されて新しく生きるために、イエス様が まことの過越の小羊として、犠牲となられるのです。
この過越(救い)のみわざは主イエスの十字架によって成し遂げられようとしていました。
2. 聖餐の制定
今、実現しようとしている救いの恵みに弟子たちを、そして私たちをあずからせるために、イエス様は、この過越の食事の席で、パンと杯を取り、それに特別な意味を持たせて分け与えて下さいました。(19-20)
このように主イエスは、十字架の死の前の晩のこの過越 の食事において、ご自分の体であるパンとご自分の血である杯とからなる食卓を整え、弟子たちを招いてそれにあずからせて下さいました。
旧約の過越の小羊とぶどう酒(15-18)は新約のパンと杯(19-20)に対応しています。前者は後者を予表していました。
古い過越の食事から新しい過越の食事(聖餐)への移行がなされ、その中心に立たれるのが、「ほふられる過越の小羊」(7)イエス・キリストです。
モーセが、出エジプトの後、雄牛の血を「契約の血」 としたことにより、神様とイスラエル民族の間に契約が 結ばれました。(出エジプト記24章3-8節 p.109) そして、今、イエス様が「わたしの血で立てられる 新しい契約である」(20)と言われたように、主イエスの血が十字架に流されることによって神様は、「あなたがたのために」(20)(弟子たち、そして、全ての人たちのために)「新しい契約」を結ばれました。
それは、イエス様を神の御子、救い主と信じる者は、 罪赦され、義とされ、永遠の命に生かされるという契約 です。
結 論)
その後、イエス様は、ユダの裏切りを告げられます。 「裏切る者の手」がイエス様と共に食卓にありました(21)。 しかし、ユダを名指しされることはされませんでした(22-23)。それは、ユダに悔い改める最後の機会を与えるためでもありました。イエス様は、ユダが罪を悔い改めることを願っておられたのです。
他の十一人の弟子たちも後に、イエス様を見捨てて逃げ出してしまいます。そんな弱い弟子たちのためにもイエス様は、主の食卓に招いて、恵みにあずからせて下さいました。
私たちも、イエス様の十字架と復活によって罪赦され、 永遠の命に生かされている者です。私たちのためにもイエス様は「切に望んで」聖餐の恵みを備えて下さっています。
聖餐を通して、「主が来られる時に至るまで」(主がもう一度地上に来られる再臨の時まで)、「主の死が告げ知らされ」(主の十字架の死が告げ知らされ)ます。
私たちは毎週の礼拝と毎月の聖餐の恵みを受けながら、地上での人生の歩みを続けていきます。 (コリント人への第一の手紙11章26節 p.267)
主イエスの十字架と復活の恵みと臨在を心に覚え、主の再臨を待ち望みつつ、共に聖餐にあずかりましょう。