ルカによる福音書22篇7~13節

「さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、 …  …弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われた とおりであったので、過越の食事の用意をした。」      ルカ22章7、13節 (p.127)

序 論)
  ルカ22章1-6節は、イスカリオテのユダの裏切りがイエス様の逮捕の背景にあったことが示されています。民衆を恐れていた宮の権威者たち(宗教指導者たち)にとって、民衆のいない夜にイエス様のおられる場所を教えてくれるユダの存在は彼らにとって、好都合でした。  今回の個所でイエス様が「二階の広間」(12)に備えられた過越の食事が示していることは…

本 論) 1.過越(すぎこし)の小羊
  過越祭(除酵祭)はイスラエル民族の出エジプト(BC 1400年頃)を記念する祭りです。主なる神様は、それぞれの家で小羊をほふり、その血を家の入口の柱と鴨居(かもい)に塗るようにお命じになりました。その血の印がイスラエルの民の家の目印となって、み使いはその家に何もせず過ぎ越しました。この出来事によって、イスラエルの民のエジプトからの解放が実現しました。 (出エジプト記12章21-23節 p.90)
  それを記念し、感謝する祭りが過越祭であり、過越の食事です。
過越の小羊は、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放され、神様の民として新しく生き始めるために犠牲となりました。それは、イエス・キリストの十字架の死によって、罪の奴隷であった私たちが解放され、救われたことと重なります。
  私たちは、罪の奴隷状態から、自分の力では抜け出すことのできない者でした。  イスラエルの民の初子(ういご)の代わりに過越の小羊が死んだように、イエス様が罪の私たちの身代わりとなって死んで下さったのです。
  過越の小羊による救いは、イエス・キリストによって、  私たちが罪の奴隷状態から解放され、赦しを与えられる、その救いを予告し、指し示していました。

2. 過越の食事の準備
 イエス様は、弟子のペテロとヨハネとを遣わして、過越の食事の準備をされました(8)。「どこに準備をしたらよいのですか」(9)と尋ねた彼らにイエス様は答えられます(10-12)。当時、水がめは女の人が運ぶもので、「水がめを持っている男」(10)は目印としてはっきり分かる存在でした。そして準備は主の言われた通りに実現していきます。
 イエス様ご自身が、弟子たちと過越の食事を共にすることを願い、備えられました。この食事を準備したのはペテロとヨハネですが、この過越の食事は主イエスご自身が弟子たちを招いてあずからせて下さったものだったのです。
 祭司長や律法学者たちの殺意やユダの裏切ろうとする思いを超えて、神様は、イエス様が過越祭の期間に十字架で 死なれるという救いの御計画を実現しようとしておられました。
 イエス様の過越の食事の準備は、この後の十字架の死への備えであり、食事の中で行われる聖餐の制定(19-20)の ための備えでもありました。
 主イエスの十字架の死によって、私たちの過越(罪と死と 滅びからの救い)が実現し、罪の赦しの恵みが神様から与えられたのです。

結 論)
 新聖歌363aを作詞した英国の牧師エドワード・モート(1797-1874)は、.イエス様にお出会いした喜びの経験を「心に水がわいた」と表現しています。
 「それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。」(イザヤ書35章6節 p.990)
 彼は、若い時にイエス様に出会った恵みと感謝を忘れることなく、牧師になった後、この讃美歌を公表しました。
新聖歌363aの1節は、総合聖歌『望みはただ主の』では、次のような歌詞に訳されています。  「望みはただ主の血と義にあるのみいかでか他のもの 頼りとなすべき イエスこそ岩なれ堅固なる岩なれ 他は砂地なれ」
 私たちは、過越の小羊、イエス様の十字架と復活により、 罪赦され、神の御前に義なる者とされました。それは、イエス様が流された血と主ご自身の義によるのです。
 イエス様によって、罪赦され、永遠の命に生かされている感謝をもって、イエス様をより頼むべき岩、人生の土台として歩み続けましょう。