ルカによる福音書22篇1~6節

 「彼らは喜んで、ユダに金を与える取決めをした。 ユダはそれを承諾した。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた。」
ルカ22章5-6節 (p.127)

序 論)
ルカ22章では、祭司長たちのイエス様を十字架刑にするための計略が具体的に進んでいきます。宗教指導者たちと弟子のユダのなそうとしてこと、そしてその中で進められる神様の御計画は…

本 論) 1.イエス様を引き渡そうとする人たち
  祭司長や律法学者たちは、何とかしてイエス様を亡き者にしようと思っていましたが、民衆を恐れて手が出せませんでした(2)。そのとき、過越祭が近づいていたからです。(1)この時は、多くの民衆がエルサレムに集まって来る時でした。だから、この祭りのときはまずい、祭りが終わってからにしよう、と彼らは考えていたのです。
  しかし、ユダが手引きを申し出たことによって、民衆の見ていない所でイエス様を捕らえる可能性が生まれたのです。その結果、この祭りのさなかに主イエスの十字架の死が実現していきました。
  そのきっかけを作ったのがイスカリオテのユダでした。(3) ユダがなぜイエス様を引き渡すことになったのか。  いろいろな説がありますが、福音書記者のルカは「ユダに、サタンがはいった」(「ユダの中にサタンが入った」新共同訳)(3)と告げます。ユダの裏切りは、サタン、悪魔の力、働き、誘惑によって起こったのです。
  ユダだけが特別な悪人ではありません。他の弟子たちも、そして私たちの誰でも、サタンに支配されてイエス様を裏切る者となり得るのです。
  主イエスの十字架の背後に、このような誘惑があり、裏切りがありました。主イエスに殺意を抱いたのは、宗教指導者(当時の聖職者)たちでした。「殺してはならない」  いう十戒の中の第六の戒めを誰よりもよく知っていた人たちです。それにも関わらず、主イエスに憎しみを抱き、殺意にまで膨れ上がっていました。イエス様の十字架を前に人間の持つ大きな罪が露わにされました。彼らやユダの姿は、戒めを守れない罪ある人間の姿を示しています。

2. 人の思いを超えて成される神様の御計画
 過越祭(除酵祭)は、このときから約1300年前、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民が、モーセに率いられて神様の力により、解放されて脱出した日を記念するものでした。そのときは、子羊の血が流され、それに守られて民はエジプトを脱出できました。(出エジプト記12章 13章 旧約聖書 p.89-92 参照)  今、イエス様が十字架で流される血によって、全人類が 罪から解放される道が開かれようとしていました。それは 宗教指導者たちやユダの意図を超えて、この祭りの間に成されようとしていたのです。  「どうしてイエスを彼らに渡そうかと」(4)の「渡す」 も、「群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた。」(6)の「引き渡す」も原語では同じ言葉が 使われています。
 イエス様はユダによって、宗教指導者に引き渡され、 後に彼らによってローマ兵たちに、そして総督ピラトに引き渡されました。これまで多くの奇跡を起こされ、神様の全能の力を顕されたイエス様でしたがこの時から全く彼らの成すがままに任せられて、苦しみを受けられます。それは、父なる神様の御心に従われ、救いのみわざを成し遂げるためでした。イエス様は、神のご計画に従い、まっすぐに十字架へ向かわれました。
  そしてイエス様の十字架の死と復活によって神様の救いの御計画が、サタンや当時の人間たち(宗教指導者たちや為政者たち)の思い、力、策略をも超えて実現したのです。

結 論)
  私たちは、神様が与えて下さった十戒(出エジプト記 20章1-17節 p.102)を守ることができず、神と人を愛することができないものでした。また悔い改めることができない者でした。
 私たちにも神のもとで悔い改めることのできないユダのような罪が心の内にあります。しかし、ユダのようになるのではない道、別の道が備えられました。 イエス様が私たちのすべての罪を担って下さいました。 だからこそ、ペテロたちのようにたとえ罪や過ちや失敗を犯したとしても、このお方のところにだけ、本当に悔い改めることができる場所(十字架のみもと)があるのです。イエス様によって、私たちは悔い改め罪赦されて、生きることができる道が与えられたのです。
 イエス様を信じ、心に受け入れる者は、罪赦され、キリストの愛を心の内にいただくことができ、神を愛し、人を愛する者に変えられ、神様によって愛において成長させていただくことができるのです。
 イエス様は、私たちがご自身のもとに行き、罪を認め、 主を信じる者となることを今も願って働きかけておられます。イエス様を信じ、従い続ける者とならせていただきましょう。